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平成22年5月5日 校正すみ

木庭啓次君弔辞

澤本 倫生

 木庭啓次君、とうとう君も、先に逝ってしまったのか? 国に捧げた命を永らえて終戦を迎え、苦しい無残な戦後にも耐え、海上自衛隊に務めたりした君だった。その後、奥様の御協力により、洋服屋として、幸福な日々を送って居るとばかり思って居たのに、クラスの幹事から君の訃報を(しら)された時は、目の前が真っ暗になったようだった。

君とは、海軍兵学校の一号の時、同じ分隊になった。3分隊は、伴や白木等、優しい一号ばかりで、君に大いに張り切って貰いたかった。ところが、君は、おぼっちゃん育ちで、殴るのは勿論、怒鳴るのも嫌がった。其の口論が昂じて、風呂の中で爆発したりして、大騒ぎしたのも、今となれば懐かしい想出の一つだ。

 君は、岡山の名家の生まれで、おぼっちゃん育ちだった。日曜の外出は、一番で、クラブのおばさんに、旨いこと言って、何か好いものを、必ずせしめて居た。当時は、もう物資の乏しい時代だから、遅い私がクラブに着いても、君のニヤニヤ笑いしか残って居ない事が多かった。クラブでは、随分性教育をしてくれた。晩生(おくて)だった私には、驚く事が多かった。「伍長、そんなのでは、兵隊になめられちゃうぞ」よく言われた。でも、御陰で卒業後、大恥をかかずに済んだ。

 

一期の候補生の時も伊勢で一緒だったが、当直の事等で、良く口論したものだった。でも、何となく、親しみ易い君と話して居るのは楽しかった。伊勢から降りてからは、一度も会えなかったが、君は確か水上特攻の隊長として、訓練にいそしんで居たのだと思う。

 私は、海風、信濃で沈没してからは、東京の軍令部で、毎日の戦況整理等に当たって居た。敵が来たら、魚雷艇に爆弾を積んで、体当たりをする訓練だから、今考えると本当に無茶な事だった。

戦後は、クラス会以外でも、高橋先生の所で、月に一度位は会えたが、先生が亡くなってからは、クラス会ででも、話をする機会が乏しかった。 今度の横須賀クラス会では、また、会えると思っていたのに、君についての情報が計報となってしまった。誠に残念である。でも、我々も、間もなく君に会いに行く事だろう。どうか、君、先に行って残った我々を見守り我々がその地に着いたら、道案内をしてくれ給え。御冥福を祈る。

平成8年2月25日

クラス会代表 澤本 倫生

(なにわ会ニュース75号3頁 平成8年9月掲載)

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