TOPへ     物故目次

平成22年5月5日 校正すみ

「会誌」より「なにわ会ニュース」へ
加藤孝二・押本直正の功績を称える

大谷 友之

加藤孝二という期友の存在を強烈に意識するようになったのは、昭和27年に戦後初めて実行した「海軍兵学校第72期戦没者慰霊祭」以降である。現存者に対する連絡、募金を一手に引き受け、強引とも思える馬力と行脚で慰霊祭の推進力になって呉れた。この行事の反省会の席上で、小生甚だ生意気にも次のような発言をした。

「今回の慰霊祭には130名もの御遺族が参加してくださり、成功裏に終ったようにも見えるが、遠隔地からの参加者が未だ少ない。色々の事情で参加したくても、東京まで来られなかった方々に慰霊祭の様子をご報告して、我々の気持ちをお伝えしないのでは片手落ちではないか云々」と。

我が期会の悪い癖は、言い出しっぺに押しっけて来ることである。「そこまで思うなら、貴様がやれ!」言い出した以上引っ込みがつかない、小生が会誌発行を担当せざるを得ない羽目に相成ったのである。

といっても、会誌発行について全く自信はなく、成算などある訳がない。駆け出しの見習い社員に毛の生えたような者が、悪戦苦闘していたのを見かねて小生を助けて呉れたのが泉五郎である。義を見てせざるは勇なきなりと義侠心に燃える彼が強力な応援をして呉れ、曲がりなりにも「会誌」第一号を発行することが出来た。今から思えば、ようまあ、やれたものだと我ながら感心している。

この「会誌」は小生の北九州への転勤によって、引き受け手がなく、三号で宙ぶらりんの状態になっていた。

十年余の空白があった後、立ち上がって呉れたのが加藤孝二である。

「期友消息ニュース版」の発行についてという檄(げき)を飛ばしたのである。『別紙 なにわ会ニュース86号47頁参照』)

慰霊祭後も、彼の人柄にもよるが、多くの御遺族とは個人的に連絡を取っていてくれたし、彼の店が伊勢佐木町のど真ん中にあったこともあって、用がなくても立ち寄る者も多く、何となく情報センター的な役割を果たしていたようで、これも動機の一つであったと思う。小生も地方勤務を終り、東京在勤中だったので、この檄の発起人の末席を汚した。 発起人として名を連ねた者は、加藤孝二の他に府瀬川清蔵、眞鍋正人、・品川 弘、・樋口 直、・渋谷信也、・飯沢 治、・大谷友之の七名であった。

その後の加藤孝二の馬力に溢れた活動については説明の要もないが、彼の頭の中にあったのは、常に御遺族のことが中心であった。「バイパスニュース」として発足したニュースは第16号から「なにわ会ニュース」として、期会の機関誌となり、今日に及んでいる。

初期の「バイパスニュース」の編集から実務上の協力を惜しまなかったのが、品川 弘と眞鍋正人の二人であった。「なにわ会ニュース」のタイトル画は品川の作品である。ニュースの割り付けには独特の才能があり、根気の要る仕事をコツコツとやって呉れた。

余白が出るとカット画を作って調節するなど、毎号彼の苦心の跡が見られた。現在も彼の残したカット画は、活用されている。

眞鍋正人は、校正など舞台裏での協力をした。中々気付かぬ細かい点まで気配りが出来、ケアレスミスを未然に防いで呉れた。

伊勢佐木町の加藤回陽堂のすぐ裏にあった「かをり」の中二階での編集会議のような打ち合わせ会で、ああでもない、こうでもないと議論したことは懐かしい思い出だが、この3人はいなくなってしまった。あの世でこの3人が集まり、編集会議をしたり、最近の「なにわ会ニュース」の様子をハラハラしながら、見ているのかも知れない。

「会誌」1号発行時、押本直正は、東京女子医大病院に入院中であった。

『病臥中にて参列不可能なるは残念です。義に投じ国に殉ぜし若者と語らいし頃の曖かき日よ。「アルバム」 の梢片隅に一人して天を仰ぎつつある亡き「クラス」かな。(後略)』の一文を寄せた。「会誌」2号には「岩村舒夫君の事ども」という長文の投稿をして呉れ、「「我が青春之賦」という詩を、「会誌」3号には、「春の渚」と「アルニラム」という詩を投稿して呉れた。病床にありながらの協力は有り難かった。

病癒えた押本は、「なにわ会ニュース」の有力な編集メンバーとなってきた。そして、加藤が体調を崩すに従い、その後を受けて編集の責任者となり、徐々に押本色を鮮明にしてきた。

ゴツイ風貌(ぼう)に似合わず、繊細で四方に気配りの行き届いた飛行機の偵察将校であり、シャイなハマッコの加藤に比べると、やせ身で休力がなさそうな風貌に似合わず、艦爆乗りの図太く押しの強い九州男子の押本には、更に長年病床で坤吟(しんぎん)している間に研ぎすまされた鋭利な感覚が加わり、押本流の編集が始まった。

 「なにわ会ニュース」の編集に精魂を打ち込んで来た押本も、体力の衰えを気力だけでは耐え切れないと見た有志期友の判断もあり、本年になって、未だゴルフ現役を誇り、気力・休力共横溢の伊藤正敬にバトンタッチを強要した。

加藤といい、押本といい、一度「なにわ会ニュース」の編集にのめり込んで行った者にとって、この役目を他人に引継ぐことは、残念至極だったと思うし、それだけ彼等の思いが込められたものが、「なにわ会ニュース」であると思う。出しゃばりな有志期友から、無理ヤリに編集を押しっけられた伊藤正敬も、近頃は「毒喰(く)はば皿まで」 の気持が強くなり、100号まではやってやろうという気持ちが強くなったようだ。頼もしい限りだ。

ついては、会員諸君も、御遺族の皆様も、ドシドシ投稿して頂きたい。

「バイパスニュース」発行時の檄文の中に加藤が書いているが「同人雑誌にあらず、期友・御遺族のニュース版なり」の初心に帰り、会員・御遺族総員の身近なニュースとして、百号の発行祝いをやれるよう応援をして行こうではないか。

 転勤による不可抗力にもよるが、50年前、文字通り3号雑誌で宙に浮かんでいた「会誌」の精神を受け継いで今日まで「なにわ会ニュース」を切れることなく発行して呉れた加藤、押本の両君を始め、途中まで協力して呉れた品川・眞鍋の両君等ニュースの発行に協力して呉れた諸兄に深甚の謝意を述べると共に、伊藤正敬に対し、その男気をたたえつつ微力ながら協力しようと思っている。

(文中、君・さんづけを省略した。不悪)

(平成13年12月12日記す)

(なにわ会ニュース86号44頁 平成14年3月掲載)

TOPへ     物故目次