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平成22年5月3日 校正すみ

和泉君に捧げるレクイエム

山田 

 あかとんぼ ときにはとまれ

  このいしに とはにねむりし

ひとをしのびて

君、和泉正昭兄が、自分で建立した和泉家の墓石に刻んだ自作の歌である。

×   ×   ×

さて、私は、君、和泉正昭を知らない。わがクラス第72期のクラスヘッドであり、入校したとき、2分隊の先任四号、そして、二号に進級のとき、1分隊の先任となり、一号になるや、名実ともに、1分隊の伍長であり、そして、その卒業のときも、恩賜一番の卒業、いうところのハンモックナンバー一番である。

という、わがクラスならば、誰でもが知っていること以外に、私は、君について、本当に何も知るところがなかった。すなわち、兵学校時代、君と一言も話をする機会はなかった。そして卒業後、君は飛行機に、ぼくは海にと別れた。戦後の33年、また、一度も会う折とてなかったのである。

そのぼくが、ここに君に捧げるレクイエムを奏でんとしている。しかし、君を本当に知る何人かのクラスメートより、ぼくは、ぼくのこの拙ない筆の方が、そして、一生のうち君と一度も言葉を交わす機会のなかった一人のクラスメートに過ぎないぼくの方が、君の真の追悼をレトリックに記すことができると確信しつつ、あえて筆をとった。

×   ×   ×

君、和泉正昭。正直に言って、ぼくは、君が好きではなかった。いや、もっと卒直に言えば、ぼくは君が嫌いであった。

昭和15年、ぼく達が四号生徒として江田島に入校したとき、ぼくは補欠に近い成績でやっと入学した一人。一号69期の卒業式で、恩賜の短剣を拝授する先輩を見て、「よし俺も……」と、一時は頑張ったものの、睡魔に勝てずに、真中付近でゾロゾロと卒業した金魚の何とやらの一人である。そんなわけで、「和泉より、俺の方が戦さは強い……。」というコンプレックス。君が嫌いだ、という背景には、このコンプレックスがなかったと言えは嘘になろう。しかし、このコンプレックスは、君をわがクラスのヘッドとして尊敬する気特と全く裏はらである。かげながら、わがクラスヘッドを尊敬する一人でないわけでもなかった。

(注。この言い回わしが微妙。)

 しかし、君が嫌いだ、いやな奴だ、と思うにいたったのは戦後である。戦後、等しく海軍を愛し、海軍に一生を捧げたぼく達。というより、どんな死に方をするか、どんな形で天皇陛下万歳を言うか、

ということのみ考えていたぼく達にとって、生き残った虚脱感が消えないところは、お互い生きることのみに汲々とし、クラス会どころではなかった。ところが、君は、いついかなるときのクラス会(地域別クラスパーティーは別)にも姿を現わさなかった。卒直に言って、ぼくは、クラスヘッドとしての責任(そんな責任があるわけではないが)を果さぬ自分本位の奴だ、と思っていた。

「クラスの一番なんて奴には、ロクな奴はいない。」

と、金魚のウンコ組は、ぼく以外の人達もみな思っていた。

×   ×   ×

 昭和52年の初秋、それは、9月末のある日。広島市民病院の一室で、一人の患者が静かに息をひきとった。

 何人かの医師が、この一人の患者に対して医師としてではない一人の人間として、数条の涙を禁じ得なかったという。そして、何人かの看護婦たちが、患者と看護婦との間柄を超越した慟哭(どうこく)の声をあげたという。

この世に多少の足跡を残した人間の臨終として、家人の熱涙に見送られる黄泉への旅立ちは普通としても、この患者のそれには、多少の、いや多少どころではない異常さがあった。

普通、そんな光景は起きない。

この患者こそ、君、和泉正昭君であった。君は、広島市民病院の内科部長として、自分が、何の病気であり、いつごろ神のお召しがあるか、ということを、およそ知っていたようだ。

見送る仲間の医師、看護婦さん達の慟哭の声の外は、君自身は、本当に静かに、逝ったというが、君の死は、広島市民にとっての損失であったという。聞くところでは、君の葬儀のあと、主のいない留守宅へ、広島市民病院の患者さん達が弔問にきて、君の生前の遺徳を称えて行くという。こんなことも、余りあることではなかろう。

実際、君ほど患者に対して責任を持ち、かつ、責任ある行動をした医者はいないという。とくに、結婚に失敗した君は、家にあっては老母への孝養と医学への読書研鑽、そして、勤務にあっては、一人一人の患者に本当に親身になって尽したという。

したがって、クラス会に出席したくても、患者への責任上実際問題として出席できないのが実情であり、そして、止むを得ず欠席するときは、必ず幹事に断わっていたという。

一偶を照らす、これ、徳の最高なり。

君、和泉の実力をもってすれば、中央にあって、また帝大系の医学部にあって、高名なプロフェッサーの道は十分に保証されていたはずだ。それを、あえて君は田舎の町医者の道をえらんだ。まさに昭和の赤ひげ であると、ぼくは思う。

 何でもよい。一つの仕事に精を出しなさい。これなら、あの人に頼もうと、他人が思うようになれば、もう人格ができ上っている。

(みやびじゃれごと)

 市民は、それぞれ自分の家の前を掃除してくれれば、市政は安泰だ。(ゲーテ)

■■

 ぼくは手帳を開いた。そして、書きとめておいたこの二つのアフォリズムをここに認めて、君へ捧げたいと思うのである。

   ×   ×   ×

結婚観

長山兄のKAは、君の妹さんだという。まだお会いしたことはない。

長山は、戦後、君のところへ行って、「貴様の妹を、おれの嫁にくれ。」

と単刀直入に申し入れたという。

君はその申し入れを断わった。長山はさらにねばる。

「それなら、正式に仲人をたてて申し込め。」

長山は、クラスのくせにうるさい奴だと思ったが、和泉の妹ほしさに正式の仲人のルールで改めて申し込んだ。君からみれば金魚のウンコ (失礼/)なみの長山に、よく和泉が妹をくれたと思うが、そう思うのはどうも、ぼくだけではなさそうだ。

ともあれ、そのおかげで、長山の子供達は、みんなずばぬけて頭が良く、思想身体は堅固だという。これは父系遺伝ではなさそうだ。長山の結婚と和泉の結婚観とは無関係のようだが、さむらい的なところは似ている。

君、和泉は、その後、親戚筋を介してどうしても見合いの話が断われないことになる。その見合の相手は、とても和泉のような君子の相手ではなかった。長山も断わるようにずい分とすすめた。しかし、結果は、君は結婚に踏みきり、ひと月くらいで離婚してしまった。そして、それ以来、君は、かたくなに、女を知ろうとせずに死んでしまった。

クラス諸兄、これは事実ないし、事実に近い。どう思う。

ぼくの戦死した伯父に、こんな士がいた。

「男子は、恋愛など断じてすべきではない。結婚は見合ですべし、見合は慎重であるべし。しかして、一度見合をせんか、よほどのことなき限り、その女をめとるべし。見合をして断わるなど、その婦人をきずつけること、これ以上のものなし。」

これは伯父の意見だが、君、和泉は、こんな古武士的一面があったのではないか、と思う。

しかし、それにしても和泉の結婚は失敗であり、その責は自分自身のものであろう。そして、君は、この責任をとるために、ぼくには考えられないようなシシフォスの罰を自分に課したように思う。君のストイックな生活は、それを如実に現わしている。

ここにおいて、ぼくは正直に告白するが、結婚もせず、母親とだけ生活する君を、極端な変人としてしか眺めていなかった。本当にすまないと思う。最も下等なパラダイムを恥じざるを得ない。

×   ×   ×

 クラス会の年度幹事になってから、富士家の電話代は二万円高くなったという。評判堂の経費でおとすにしても、これは大変なことである。

 富士幹事のテレフォンサービス網は、和泉の計報を全国に伝えた。そして、ぼくも、そのインフォメーションを受けて思った。

クラスの誰にも知らせずに、ひっそりと葬儀をすませたということ、こんなことがあるろうか。江田島クラス会の用件で、もし、富士が電話をかけなかったら、和泉の計報は十月中旬の時点で、なお、誰も知らなかったことになる。しかも、そばには、長山がいるのに。

「和泉の奴、きっと、頭でも狂って、自殺でもしたのか……。」

正直、ぼくは、そう思った。

この点については、江田島クラス会の席上義弟長山が立って、正式に説明した。

「遺書、あるいは遺書ともいうべきものがありまして、それに、自分が死んでからのことが、克明に書いてありました。それこそ、隠坊の心付けにいたるまでです。その中に、葬儀に関しては、親戚だけですませ、他の誰にも知らせるな、とありましたので、クラスの諸兄にもいっさい通知をしませんでした。和泉は、生前、クラス諸兄にもご無沙汰がちであったが、どうかおゆるし下さい。・・・・」

長山は絶句した。そして、泣き出した。あとでの話。樋口入道の前にすわっていた奴の言。

「あのとき、樋口のギョロ目から涙が流れ出た。おれは、樋口が泣くのを始めて見た。」と。

ワーズワースは言っている。

「大人になっても、虹をみて感激できる自分を、ありがたく思う。」と。

 男のロマン ぼくは、長山の絶句に、男のロマンを感じ、そして虻を見た。参列する全員、同じロマンを感じたであろう。

君、和泉正昭よ。われわれの涙で、君の葬儀に参列する以上の鎮魂の曲を奏でることができたと、ぼくは心から思うのである。さらに、僕は思う。和泉は、結婚の失敗によって、身に、シシフオスの罰を課した、とぼくは前段に書いた。

戦後の一見、ミサントローボスにも見られる君のいっさいは、一方において身内としての母親への異常な孝心として窺うことができるが、反面、昭和の赤ひげとして患者達に、これまた異常なまで慕われたということは、決して(人間嫌い)な性格でできることではない。

そうしてみると、君の結婚の失敗が、それ以後の君のいっさいの生活態度を規制していた。それこそ、自分自身に自分で課した贖罪(しょくざい)であった。いったい、こんなにまでする必要があったのだろうか。

あかとんぼ ときにはとまれ

このいしに とはにねむりし

 ひとをしのびて

この歌は、君より先に逝った母上に対してその埋葬のときに墓碑に刻んだものだというが、たしかに、その意味もあろう。しかし、ぼくには、この歌の真の意味は、むしろ君自身にあると思われる。

灰が峰の山里に飛ぶあかとんぼよ。

どうか君、和泉の墓にとまってやってくれ。それこそ、本当の供養である。 

一将功なり万骨枯る。

確かに、世が世であれば、君は一将にまちがいなくなる男だ。しかし、君は、一将にはなり得なかった。だが、君の力によって、広島県民の万骨は、何人となく救わられた。これこそ、君の生きがいであったろう、とぼくは思う。

×   ×   ×

この辺で、ぼくの君に捧げるレクイエムを閉じよう。

最後に言う。アンドレジードは、

「美しく死ぬことは、さほどむずかしくはない。しかし、美しく老いることは非常にむずかしい」と。

君、和泉正昭。われらのクラスヘッドは、いかにも美しく死んだ。しかし、その分まで含めて、ぼく達は、美しく老いるべく努力をしょう。たとえ、それが非常にむずかしくても。

 世の罪を除き賜う子羊よ

かれらに安息を与え給え。

(筆者注)

文中、長山兄のことまで「金魚のうんこ」と表現したが、長山一号生徒は、第58分隊伍長だったそうで、少くとも、伍長ということになると、金魚のうんこという表現は、同分隊の名誉にかけて訂正した方が適切だと思うので、取り消すことにする。

また、この原稿提出後、押本編集長より、多少知ったかぶった横文字が多いぞ・・・とお叱りをうけた。実は、私は、常にメモを保持していて、読書中、参考になる蔵言、語彙などを書きとめておく。今回は、わがクラスヘッドの追悼文ということで、そのメモを持ち出し、少なからず気張ったということで各位のご了承を得たい。

(なにわ会ニュース38号23頁 昭和53月9月掲載)

(編集部注)
横文字が多くて分かりにくいのでそのいくつかの説明である。
レクイエム   死者の安息を神に願うカトリック教会のミサ。
レトリック    巧みな表現                    
アフオリズム   短いピリッとした表現で見解を表したもの  

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