TOPへ   物故目次

平成22年5月3日 校正すみ

和泉 正昭逝く

樋口 

海軍兵学校に入校して最初の1年間、私は和泉正昭の存在を知らなかった。四号、三号時代を通じて同期生といえる範囲は、同分隊、同教班のクラスに限られ他の大部分は自分とは無関係な別の世界の住人のようなものだった。当時イヤでも眼に入ったのは一号生徒を示すべタ黒枠のネームプレートのみ、白地のものなどとても意識の対象とはならなかったように記憶する。

年が明けて、これまで一号生徒であった69期生を送り、次いで70期生の卒業、入校後初めての分隊編成替えがあった時、第1分隊2号先任の和泉を見て、エラク小さなガニ股のクラスがいる、これでよくぞ体格検査に合格したものだ、と思ったのが彼を知った最初である。そして、その印象は彼の訃報を聞いた今でも続いている。

二号時代は、久邇宮徳彦王を戴く殿下分隊に属し、生徒隊の中で最も多くの増食組二号のいた第2分隊で、鉄拳制裁を受けることも少なく、戦局の推移も知らず、隊務は新入りの三号任せで、生徒館生活を真底から謳歌した1年間であったが、僅か第一生徒館中央廊下一つを隔てた隣に在る第1分隊との距離はまだまだ遠く、彼と口を利いた覚えはない。何故か一号の田結生徒とは度々話したことを思い出す。上級生のいる悲しさ、二号とはいえクラス同志の交際は多少拡がったとは言っても僅かなものに過ぎず、乗艦実習等で生徒館を離れクラスだけの訓練の折か、入浴時に他部のクラスと肌を触れ合う機会を持つことができた程度で、期訓育の度に原田主任指導官が如何に声を大にしてクラスの団結を叫ばれようと、六百数十名全員をクラスとして意識するには至らず、皆の顔も名前も判らぬままに相変らず分隊、精々部単位の交友で終っていたようだ。その中で、特にこれといった特徴もなく、角力に弱く、剣道、水泳、体操、短艇、射撃、何れの訓練においても何処にいるのか目立たぬ存在であった彼だけが、わがクラスのリーダーとして全員の知己を得ていたことになる。

海軍生活中で最も嬉しい最初の出来事、71期を逐い出して一号生徒になったのは明けて昭和17年の秋であった。驚いたことには、それまで見たこともなかった連中が一号のネームプレートを胸に活き活きと、生徒館内を潤歩し始めたではないか。

 こんなに沢山の72期生がいたのかと思ったのが私のクラスをクラスとして意識した初めであった。

和泉と折に触れ親しく口を利くようになったのも、それからのことである。誰にも気兼ねのいらぬ一号としての一年間、彼は模範生、こちらは勝手気ままなお山の大将の違いこそあったが何とはなしに気持の通ずる相手ではあった。

卒業後は再び空と海に別れ、勤務地も離れ離れの戦場で過すことになったから、彼との交友の記憶は勢い江田島における一号時代と終戦後の一時期に限られている。そして、今や彼とは二度と会うことはない。

       

彼、和泉正昭、私の知る限り自ら進んでクラスの誰彼に交友を求めるタイプではなかった。その性格や思想は、近くにいた一部の者にしか知られておらず、その風貌からして皆から一目置かれた畏敬の対象になっていたと思われる。

その人生観の片鱗を皆が知ったのは、われわれが一号となった最初の期会の席上ではなかったか。自習時間を割いて全員参考館講堂に集まり「一号としての自覚と下級生指導について」代表者数名の発言があった中で、彼の意見は一見、無味乾燥で生真面目一方のものではあったが無形の感銘を皆に与える真摯さを備えていた。

当時未だ下級生を並べての「お達示」の経験も少なく、人前で自分の意見を述べたこともない成り立てホヤホヤの一号にとって、クラスとはいえ名前も顔も、まして気心も判らぬ全員に向って衒わず臆せず率直に一号の在り方を論ずる彼の態度には一種の説得力があったと記憶する。

後にわが72期を評して「お嬢さんクラス」と言われるようになったのも、良かれ悪しかれ、この時に端を発していたともいえよう。二号時代からの惰性と、茶目気から脱し切れず、規律と自治を重んずる生徒館生活の枠をはみ出して大いに自由を満喫していた私にとって、一号になってからも少しも変らぬ彼の生活態度は矢張驚異としか言いようがなかった。私が何をやっていたかは彼とて承知していたと思うが、他の一号からは文句を言われたり、忠告を受けたりしたことはあっても彼から干渉を受けた覚えはない。時には彼の視線を眩しく感じたことはあっても。

赤田、折笠等々の諸教官に、あるいは当直監事室で、あるいは五省の時間に自習室より中庭に引っ張り出されて絞られたことも再三に留まらなかったがその都度、彼を引き合いに出されて当惑したことも少なくない。生徒隊の年間行事に当っては彼とペアを組んで取り仕切ることが多かったが、二人の背丈の違いが醸し出す一種のペーソスは却ってユーモラスな場面すら生み出していた。

八方園神社の例祭の時、つい手渡し損ね折角のご供物を泥だらけにしてしまったときも、彼はシレッとして一つ一つ拾い上げて神前に供え直したものだ。

その彼が生徒館生活の(とう)()を飾る大事件にぶつかった時に示した行動は今でも忘れられぬことの一つである。

それは卒業をあと僅かの後に控え、守勢に回った大東亜戦争の戦局をわれわれの手で挽回せんものと終末教育に没頭していた頃のこと、所謂東郷事件が突如頭上に重苦しくのし掛ってきたときのことである。

今から考えれば他愛のない稚気から発したことではあったが、当時この事件は72期の破廉恥行為と受け取られ、兵学校教官室はおろか海軍省教育局をも捲き込む大問題となった。

教官室での紛叫のあと、和泉と共に監事長室に呼び出され、事の内容の説明を受けた上で本件に関する72期として取るべき態度について意見を徴せられることになり、今は亡き石川教官からは「樋口、お前はどう思う? お前が知らなかったとは言わせぬぞ」と一喝喰わせられる破目に立ち到った。生徒館に戻り、各分隊伍長の集合を求めた第一生徒館の新聞閲覧室はゴウゴウたる議論に湧いた。

関係者の級会除名を叫ぶ正義漢あり、マアマアとなだめる穏健派あり、黙して発言せぬ一団あり、結論が出るまでの長い時間私はどうなることかとハラハラし通しだったといえる。結局、和泉に万事一任することとなって散会したあと、私は彼に言った。

「海軍生徒服務綱要に違背したとの理由で彼等に厳罰が科せられるとすれば、俺も違反行為をしてきた一人だ。偶々彼等と一緒の行動はしなかったから今回は掴まらなかっただけのことだ。貴様の出す結論次第では、俺も俺なりに覚悟を決めねばならぬ。一体、何と教官に返事をする積りだ」と。普段余り表情を変えぬ和泉の奴、ニヤリと笑って、「級会の総意とはいえぬが、先刻の各伍長の集まりでは結論は俺に一任された。教官には俺一人で返事をしてくるから、貴様は一緒にくるな」と応えたものだ。後で聞くところによれば彼の答申は次の如くであったという。

「精鋭なる幹部の養成は一朝にして成らず。現戦局に鑑み回天の一事を達せんとするに当り海軍は一兵と雖も徒死せしめざるを希求すと信ず。乞う3年の教育訓練の成果を無為ならしめず。彼等をして名誉の死所を得さしめよ。我等72期一同、手を携え、その面目に掛けても誓って皇国の期待に応えん」

故中川教官、彼の意図する所を諒とし百方奔走して罪は罪とし人は罰せず、との結論を得たという。

以後、彼の中川教官に対する私淑は戦後教官が亡くなられた後まで続くことになる。この事件は、未だクラスという観念に明白な自覚を持てなかった私にとって、級会というもの、重みをイヤという程炊きつけられる転機となった。

ともあれ長かった生徒館生活を通じて彼のクラスヘッドとしてのリーダーシップは、決して人目に着く華々しさはなくまた全員の牽引車としての力強さは示さず、折に触れてイブシ銀の光彩を発揮するものであった。

戦時中の彼の消息は、飛行学生時代に続く大分、木更津、横須賀で、フットバーに足の届かぬパイロットとの名声を博し、瀬戸内における陸軍航空隊靖国隊との協同訓練で陸軍側の信頼を受けたことを聞くだけで顔を合わせたことはない。

最後の所属であった横空では毎夜予備士官のグループと膝を交えるのが常であったと聞く。裏日本で終戦を迎えた私は、終戦処理に続く復員輸送計画が一段落したところで、舞鶴を離れ、東京の第二復員省人事局でソロソロ始まっていた戦犯問題を担当することになった。

その頃、風の便りに彼が岡山医大で勉強していることを耳にして、資料整理のため各地を巡る機会のあった私は、折さえあれば岡山の下宿先に彼を尋ねるのが習慣となっていった。初めて彼を訪れた時、それは木枯しの吹く淋しい晩だったが、医大で住所を確かめてから彼の寄宿先に辿りつくまでの道程を、つくづく敗戦の悲哀を噛みしめながら、これからの日本の行方について、級会のことについて、戦死者の遺志について、一体何を彼と語ろうかと、こつこつ考え続けていたように思う。

薄暗い裸電球が一つブラ下った下宿の二階六星間には火の気一つなく、夜具もウソ寒い煎餅蒲団が一組部屋の隅に積んであるだけだった。食事にも事欠く時代で酒などあろう等はなし、出枯らしの生ぬるいお茶をすすりながら古毛布を頭から被って一夜語り明かしたことは、何故彼が医学を志したのかということであった。

「日本は結局、米国の物量の前に屈したが、敗戦の引金は広島の原爆であった。戦争というものが所詮人命の奪い合いで勝敗を決し、勝者のみが正義を主張できとするならば戦う以上は勝たねばならず、敗れぬためには原爆以上の威力を人命の上に発揮できねばならぬ。さすればこれをサイレントプレッシャーとして戦わずして勝つ道理。人命生死の秘密を探ってみたい」

 要約すれば彼の考え方はそのようなものであった。そして更に、

「海軍時代を省みて、つくづく自分は72期のリーダーとして不適格であることを痛感した。今ネービーがなくなり、連合軍より旧軍人の追放令が出され、今更クラス会でもなかろうが、自分が終戦時に決意したことはクラスとも一切連絡を絶ち秘かに野に下り己れの信ずるところに従って後図を策す積りであった。今後、もし72期がクラスとして続いてゆくようならその連絡の中心は貴様がやってくれ。俺自身は級会から消え去ることにしたい。終戦直前に出来上ってきたクラスの写真集も当時判っていた名簿も一切焼却してしまったが、クラス会の基金等は東京にいた沢本と善処を打合せておいた。沢本と連絡して今後のことは一切頼む」とも頼まれた。爾来東京に在って細々ながらも生存クラスの消息を求め、戦死者の遺族との連絡を保てるよう一層の努力を続けてきた積りである。

この時を皮切りに何度か彼を尋ねた際、何時も話題に上るのは、日本の将来を憂うる意見のみで、彼の医学研鑽の成果については遂に一言も聞いた覚えはない。

当時の彼の考え方や見透しは、その後当ったものも外れたものもあったが、国民全体が食うや食わずの状態で将来の希望も、ともすれば失い勝ちの時代に、さほど頑健ともいえぬ身体に鞭打って勉学の傍ら、相変らず生真面目に大局を考えていた彼の澄んだ眼差しは今でも瞼にちらついている。 その後、呉に帰った彼は、広島市民病院で医師としての天職に新たな情熱を燃やしたが、義弟長山兼敏の言によれば患者の信任を得ること他に類を見なかったという。

焼け跡の呉の茅屋に彼を尋ねた時も、前回の江田島級会の際も、その後のクラス会の盛況を喜び皆の戦後の活躍に心からの慶意を表しながらも再びクラス会の表面に出ることはせず、只、皆の健康に思いを馳せるばかりであった。

そして今突然彼の訃報を聞く。不幸にして結婚に破れ、遂にその優秀な胤をもこの世に残すことなく彼は去ったが、これも余りにも厚い母親に対する孝心のなせる業であったと思わざるを得ない。

ストイックな一生を送り夙に自己の死期を悟っていた彼の身辺は単純、清潔そのものであり、戒名も墓地も用意し、何一つ後に残さぬよう配慮した上で時の訪れを静かに待っていたという。

今秋の江田島クラス会で皆と顔を合わせるのを避けるようにヒッソリと旅立って逝った和泉に対する恨み言は、何故一言今の感懐を洩らして置いてはくれなかったか、ということのみである。

心あらは 赤とんぼよ

灰が峯の色づく頃

来りて 焼山の空に舞え

 (なにわ会ニュース38号20頁 昭和53年3月掲載)

TOPへ   物故目次