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平成22年5月3日 校正すみ

夫の想い出

岩切和香子


「初見の恋を信じます」

この言葉のように、ひたすらにこのような願いの人として主人と出遇うこと

それは昭和39年2月も過ぎようとしたある日のことでした。

コロンバンという店の扉を疾風のように突き走って入って来た人、この方かなあと思ってご挨拶すると、「ハイッー」とこちらの方がまるで当惑してしまうほどの不動の姿勢。やがて腰かけて暫くすると何かそわそわとなさるご様子・と、

「一寸と失礼します」何んだろうと思ってみていますと、洋服のポケットからゴソゴソネクタイを出して結ばれる。その何んともいえない、童心そのもののお姿に、つい微笑ましい思いをして、まるで漱石の坊っちゃんを想い起させるような感じをいたしました。

瞬時、私の胸中に言い難い思いのあったことを、いまなお、心鮮やかに残しています。

後々そのことを主人は、

「一流の床屋にいき、約束の6時に間に合うように急がせて、あと5分だ! と思って走って来たとのこと。かつて海軍兵学校時代、時間を守ることを鍛えられたから、ネクタイをする暇もなく馳けてきたのだぞ」と。

そのことが私には、とても好ましい思いとして主人を感じていたようです。好きという気持ち、どんなに嫌なことがあっても好きだとの心情に、私のすべては、はや決ったような思いでした。

仲に立って下さる方もみえて食事をしたあと、今日はこれでという時、主人の申出があってその後、軍艦の出てくる映画を説明づきで見せていただきました。家まで送ってもらう道々、夜空の星座のお話は、とてもロマンチックな思いをさせられ、初めて海軍兵学校出身であることを知りました。

2回目はいきなりお墓に連れていかれ、いささか不思議に思っていましたが、これは祖先に報告の意味があったそうです。私はまだ自分の気拝を確かめていた時だけに、主人の行動は解しきれなかったのでした。

3回目、神武様から護国神社へ、そして宮大の研究室に案内され、たまたまいらした恩師から、奥さんですかと言われ、「ハイ、家内です。」 「いや、近く結婚するのです。」といった調子で、4月10日、神武様に自分一人で申し込んで来て、この日しかあいていなかったのでといった、全く電撃的な作戦なのか、人々のアット驚く間に結婚してしまいました。

「思い難くしていま漸く遇うことを得たり」といった私の大切な人生が始まり、女として、生涯に唯一度、唯一人の人を愛することを夢みた私には、理想の家庭をと思い願っての過ぎた2〜3か月日、突然舞い込んできた女の人の手紙。

2か月にして流産してしまったほどの私の気拝でした。海軍時代、マントの中に一升ビンを隠して、門を通ったとか・・・

両手に花と芸者を寝かせて、悠々と何もしなくて寝ていたとか・・・なんだか、話の様子に主人の童貞説は疑わしきものとなり、信じられない男性の一人であったこともわかりました。

′そして長女朋子出産は、主人にとっても人の親としての思いを人一倍深く味わう中で、私以上に育児書を読み、あれこれと大変な指図ぶりで、事ある毎に写真をとり、子供への思い出作りに楽しい日々がしばらく続きました。その時、わが家の小さい黒板に書かれているわが家の風(躾)は、海軍兵学校の五省そのものでした。

一、至誠に障る無りしか。

一、言行に恥ずる無りしか。

一、気力に欠くる無りしか。

一、努力に憾み無りしか。

一、不精に亙る無りしか。

書き終えて声高く兵学校時代の口調で読んだ主人の声が、その字の中からまるで聞こえてくるような、なつかしさをみるたび感じます。主人の勤めは海に関係ある水産高校で、時折カッター大会に連れてゆき、そうした夜は、自分達もお尻から血の出るほどやらされたとか、それはそれはなつかしい思い出を語ることつきずといった幾夜もありました。

学校では、英語、社会、図書、視聴覚関係を受け持ったりして、普通の人のように努めようとしては、時々入院したりすることがありました。

戦後の病気で、1000ccしかない肺活量の体では、教室に向う階段も10段がやっとでハアハアとその息苦しさを、休んでは又行くといった様子で、出会う生徒には窓の外をみてさりげなくよそおい、自分では随分体の苦しみを耐えて頑張っていたようです。

それだけに、わが家に帰ってくると、何もかも投げ出してグウグウとただ寝ることのみが、何よりの体の救いといった感じで生活するのが私の知っている主人の・・・現実の姿でした。そんな大変弱い体の主人に、ある日、次のような事故がありました。

信号待ちしていた主人に、後から自転車の女の人がいきなりぶつかってきて、自分も自転車とも前にのめって倒れ、セメントの道路で前頭部の骨十二センチ位を割り、しかも中央僅かに五ミリをはずれていた奇蹟的な運の強さ。その時の話に、クラクラと目がくらみ、ペタンと腰をつき、30分位動けず、じっと道路脇に坐っていた。それから、自転車に乗って県庁前から相当離れたわが家まで、途中何度か目の前が真暗になるのを、なにくそ、なにくそと一心にこいで帰ってきた主人、「オーィ。事故にあったぞ!」と大きな声で平然と玄関に立っていた姿、ズボンの大きく裂けているほどのひどさにも気づかずに。

 時には、「居眠り居士」と自称していた人に、海軍魂は、一体何処にと問いかけたくなることもあっただけに。

その気力のすさまじきものに心驚き、磨かれた魂に触れる思いをしたこともございます。夜を徹して冷す私に「いざという時は、俺はなんでもできるのだぞ。ただ体がきついから、とぼけているようにしているのだ。」とぽつんと言った時、本当なら、そうあるべき(なんでもできる)主人の姿が心の底にあったのでした。

 その後、私の体の不順とあいまって、したこともない耳下腺炎にかかり、2か月余り、衰弱のはげしかった体では処置できず、生まれて来た2人の宿命的な子供が加わってからは、大変な毎日のあけくれでした。主人に相当無理がいったようでした。予定過ぎてレントゲンで知らされた2人のこと。3日3晩、何もとらず、考えくれた私の心中を、誰よりもやさしく慰め「さあ、元気を出せ。」 「3人、にぎやかでいい」と力づけ、初めから男の子を主人以上に望んだ私、それなのに残された願いも空しく、「ご免なさいね、あなた。」と主人に言うも情ない気持ちを、大きく、大きくつつみこんでくれたのも主人の心でした。

そして10年目の今年、結婚を記念して私と長女を是非クラス会に連れてゆくとはやばやと申し込み、なつかしい話の江田島をどんなに得意な顔で私たちを案内してみせてもらえることかと何より楽しみにしていた欠先のことでした。江田島のクラス会には、いつもと違って「俺はどうしても今度は行きたいなあ」と申しますので、幸い、体の調子もよさそうでしたので大丈夫ならとすすめてみました。

 私にもなんとか都合がつかぬかとしきりに言いましたが、小さい子供達が案じられますので、とうとう一人で出かけたのでした。

その節、大変お世話にあずかりました73期玉置様宅から、夜電話をかけてきて、大変なご機嫌であんな嬉しそうな声を聞いたことはありませんでした。あの時、本当に皆様方にお会いしていたことがよかったと思います。帰って来てから、俺達はいいなあ、全国何時何処でもクラスがいるし、いまに外国まで連れていってやるぞと大きなことを申しましては、しみじみと、友達はいいものだ。〃と言って暇さえあると飽きることなく赤い名簿をめくって、傍の私はその都度いろんな話を聞かせてもらいました。

主人の失敗談は、授業中、オシッコをしたこと、その様子を細かに・・・

叉、二階から問にあわずやったとか・・・。

笑いながらも、そうした話を通して主人が受けた数々の美しい友情や、学校の気風を味わった私は、このたび、全くより以上の皆々様方からの溢れる真心を、どんなにお受けいたしましたことか、有難い気拝で一杯です。

  「唯今!ただいま!」とまるで一年生のように、あどけなく大きな声を出してわが家に(直行だぞ、いつも!)帰って来ていた主人の声は、今は無く、いつとはなし、時折玄関まで出てみて主人の靴をそろえるとき、ふとどうすることもできなく涙が頻を伝います。

思えば漸くにして育児時代を過ぎ、子供たちを交えて家庭の喜びをはぐくみ育てようとしていました私達に、幾らかの歳月がゆるされるものならと世の無情を味わうのみでございます。幸いは余りにも短くて、私たちの失ったものは余りにも大きなものであったようです。

去年の夏休み、子どもたちと鹿児島に出かけ、マリンパークで喜ぶ3人の子供をみながら、俺達はなによりも子供の心に毎日を残していこうと語っていました。学校が休みになると、いつも入院して次の学期にそなえていた、数日をあてた一泊旅行でした。

そうした10月末の日曜日、あるいは宮崎大学の方へ自分の一番望む研究的な道が開かれそうなお話もあって、これからの主人の道の開ける先々をともどもに喜んでいましたのに、なんだか風邪気味で、いままでで一番苦しいとか申しますので、すぐ翌日入院し、常日頃から、「俺は風邪をひいて肺炎になったら、それまでだから。」とよく言っていましたので気になり、もっと設備のある県立病院にかわるため、主人も私も何度か歩をはこびました。しかし、その度にうまくいかず、そうした時間が手おくれを招いたということになったようです。

気管支炎症を起し肺活量の少ないため、ガス交換がうまくいかず、だんだんとガスが体内にたまり、亡くなった13日朝、幼な友達に、「俺は死なれないとなあ!」と言った人。

心中如何ばかりの思いがあったでありましょう。その頃から私に傍にいて手をしっかり握っていてくれと言ってからは、私も私の生命の総てを注ぎ込むようにして、しっかりと握りつづけ、私が握っている限り死なないと強い一心で主人と一緒に必死に病と闘ったつもりです。そして午後1時、少しは施設のある他の病院に移しましたが、この頃から意識不明となり、しかし苦しい中から、「がんばる!」 「がんばる!」と大きく叫び続けていた主人でしたが、ついにその夜9時頃、急に半身起き上ったかと思うとバッタリ倒れたまま息をひきとりました。

「俺が死んだら、お前は初めて俺の偉大さを知るだろう。」と、時折言っていた言葉のとおり、その後に寄せられましたクラスの方、いろいろな方のお手紙を通して、私の知り得ない主人の立派な姿を教えていただきまして、ほんとうに嬉しく存じました。

短い歳月とはいえ、私には数あるこうした憶い出とともに多くの方々の真心を力として、これから先、3人の子供をしっかり育て上げていきたいと考えます。

遠路早速に駈けつけて下さいました玉置様、寺山様、また安藤様のお話にお別れの夜は、主人の魂もどんなにか安んじたでありましょう。

葬儀には立派な弔詞をいただき、多くの方々の御心を受けながら取り行われましたことを、紙面をかりて、厚くお礼申し上げます。

(なにわ会ニュース30号7頁 昭和49年3月掲載)

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