TOPへ   物故目次

平成22年5月3日 校正すみ

伊藤 孝一君を偲んで

佐々木哲男

 平成19年7月14日午前10時、眠るが如く静かに息を引き取ったとの奥様・ご家族からの訃報に一瞬驚愕した。交通事故にあって手足の不自由はあったが、大変元気だったのに。悠々とした大往生だったそうだ。

海軍兵学校1号時代、第4分隊の伍長だった伊藤君は文武両道に秀で、恩賜の短剣を拝受して卒業した。1号時代、同分隊だった私は、伊藤君に大変迷惑をかけた。済まなく思っている。

私は教官の石川大尉にマークされ、ある日曜の非常召集があった時、持ち帰った煙草「光」が発見され、鉄拳制裁を食らった。教官から、ほかの期友にも喫煙者がいるだろうと再三言われたが、白状しなかった。その為、制裁が厳しく奥歯が欠けた。謹慎1週間だった。分隊監事五十嵐中佐は、「教官の中にも謹慎を受けた人がいる。心配するな。」 と言われた。この時、伊藤君にも心配をかけたが、叱責は受けなかった。

卒業後、小生は飛行機乗りとなり、伊藤君は艦艇に行き、山城、第一海上護衛隊、春月に乗艦、勇戦奮闘した。 

幸い、無事終戦を迎え、戦後、伊藤君は新潟医大に進学、卒業後は医局に残り大学教授になるものと思っていたが、彼は佐倉市中志津で伊藤医院を開業して、地域の医療に貢献した。

平成9年2月には開業医を辞め、房総半島の太平洋沿岸の岬町(千葉県夷隅郡岬町椎木 現在いずみ市岬町に名称変更)に移住、悠々自適の生活に入った。太平洋を眺めながらの生活は本当に素晴らしいものだったと思う

なにわ会ニュース54号2頁に昭和60年年末なにわ会で軍港小(うた)の「春の横須賀」を歌う伊藤君の優しい温顔が写っている。

兵学校時代大変お世話になったことを感謝し、慎んでご冥福を祈ります。

(注)                       (編集部)

伊藤孝一君の逝去は9月4日伊藤夫人からの葉書で知った。2ヵ月も前のことなので、電話連絡網では流さず、HPとブログに掲載した。

若し、ご不幸があった場合、少なくとも名簿担当(現在は伊藤正敬)にだけは知らせるよう、ご家族に申しつけておいていただきたい。

 

ご遺族から頂いた感謝の手紙を次に転載する。

伊藤 洋子(孝一の妻)

漸く台風が過ぎたとホッとしましたが蒸し暑さが残り、晴れた秋空が待たれる今日でございます。

本日はなにわ会の弔慰金と、ご丁寧なお手紙を頂戴致しまして誠に有難うございました。

新潟に居ります長男の処に送られていた遺言はもう何年か前の事でございまして、なにわ会の代表には鈴木脩さんのお名前が書かれておりました。 

娘がなにわ会の名簿を調べていて、鈴木さんの欄には死亡と書かれていると申しまして、それで私の記憶に残っておりましたお名前やらで、何人かの方にお報せ致しました。純一さんから上野様のことよく伺っておりましたのに考え及ばず、大変に失礼を致しました。

今年の慰霊祭の出欠となにわ会存続に関するアンケートは病院にもって行って、私が聞いて葉書を出した覚えがございます。入院直後看護婦さんに「伊藤さん前に何をやっていらしたのですか」と聞かれた時「海軍」と答えたと看護婦さんに聞き、彼の人生の大半は海軍時代だったのだと気付きました。その後、今年金婚式を迎えました、私との生活は何だったのだろうと思いました。

亡くなった後、部屋を整理しましたが、海軍時代のものと、それに関する沢山の本と、私では伺い知れないものが沢山ありましたようで、その頃の話をもっと聞いておけば良かったなと思っておりました。

納骨も終わり、整理が一段落しまして、今はホッとした思いでございますが、幸い子供が多く、4人が皆親孝行で、私によくしてくれますので、これからも元気で頑張ろうと思っております。私の母の年齢九十一歳までなんとか元気で居て、母の様にピンピンコロリで行き度いと頑張るつもりでおりますが少々欲張りというものでしょうか。

お礼を申し上げるつもりが、つまらぬ事を書いてしまいました。どうぞお許し下さいませ。

上野様にも何時までもお元気でおいで下さいますように、本当に有難うございました。厚くお礼申し上げます。

(なにわ会ニュース98号21頁 平成20年3月掲載)

(上野注)
 純一氏は伊藤孝一君の2番目の弟さんで私と同じ鎌倉市西鎌倉に居住しておられます。

TOPへ   物故目次