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平成22年5月2日 校正すみ

石上 亨君への弔辞

山根眞樹生

謹んで石上亨君の霊に申しあげます。

久しく君と接する磯会に恵まれず、兄の消息を案じておりましたところ、全く突然にご逝去の報に接し、天地も揺れんばかりに驚いております。

顧みれば君は、昭和15年12月、海軍兵学校第72期生徒として、我々と共に青雲の志に胸をはずませ、江田島の校門をくぐって以来、伝統に輝く海軍の将校生徒として約3年にわたり、切磋琢磨に励みつつ、太平洋戦争酣の昭和18年9月卒業するや、君は第3艦隊第3航空戦隊航空母艦瑞鳳乗組を命ぜられ、所謂同期の桜として私等4名と起居苦楽を共にいたしました。

君は特に選ばれて中甲板士官として、常に艦内規律の元締として卓抜の成果を挙げ、また、戦闘配置に就くや艦内防禦の重責をよく果されました。

今から思うと考えられないことでありますが、君は弱冠21歳にして多数の部下を指揮し、サイパン沖作戦に参加し、引続いて昭和19年10月下旬、世紀の海戦といわれたレイテ作戦においては勇戦奮闘死力の限りを尽されたのでありますが、武運拙く遂に我々の乗艦瑞鳳は沈没の不運に遇い、南海の海を君と共に泳いだ日のことを永久に忘れることはできません。君はその間においても冷静沈着よく、部下を掌握され多くの人命を救われたのであります。

戦に敗れて祖国に還る駆逐艦の艦橋で互いに命あったことを喜び、後途を策する君の面影は中甲板士官石上中尉の面目躍如たるものがありました。

その後君は潜水学校入校を命ぜられ、それぞれ別の任務に就くことになりましたが、昭和20年6月海軍大尉に任ぜられ、やがて無念の思いをもって終戦を迎えられたのであります。

爾来30有3年、お互いに仕事の上では共通の話題は無くなりましたが、年に1回か2回のクラス会において、顔を会わせるたびに「おい元気か」 「貴様はどうだ」の一言で総てが通うずる兄弟以上の情愛が流れ、周囲の人々を羨しがらせたものでしたのに、何故に天は君の命を召されたのでありますしょうか。神の摂理により幽冥界を異にしたとはいえ、君の霊は我々海軍兵学校第72期の少ない生存者の胸のうちに永遠に生き続けるでありましょう。我々は今日から君を失った悲しみに堪えて行かねはなりませんが、君の残した足跡を大切に守ってゆきたいと思います。

石上君の霊よ、

どうぞ安らかにお眠り下さい。

ここに同期生を代表して告別の辞といたします。

昭和53年4月9日

海軍兵学校第72期クラス会代表

山根眞樹生

 (なにわ会ニュース39号7頁 昭和53年9月掲載)

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