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平成22年5月2日 校正すみ

池田誠七君への弔辞

藤田 昇

謹んで故池田誠七君の御霊前に弔辞を捧げます。

君は北海道、襟裳の西、浦河で生を受けましたが、青雲の志を抱いて故郷を離れ、名門函館中学校に学びました。昭和15年12月天下青少年憧れのまと、海軍兵学校第72期生徒として合格し、海軍士官をめざしての第−歩を印されたのであります。

江田島での生徒最上級生時代の君は、得意の弁舌とユーモアをもって下級生の指導に当たり、その信頼は絶大でありました。その挙措動作には特徴があり、足音軽く、身体を浮かし気味にスマートに歩く姿は一風をなしておりました。

ある時は小銃係として「とうちゅう」 (銃身の中)を覗いて「煙突より黒いぞ」と言ってはお達示をする。土曜日大掃除での「雑布用意」は特に厳しかったと三号は今でも話題にする。それでいて実に印象深い、温かい一号であったと下級生は懐かしむ。

在学中大東亜戦争が始まり、18年9月には戦勢も風雲急を告げる状況下、卒業して練習艦八雲で瀬戸内実習、18年11月巡洋艦足柄乗組となり、12月6日マラッカ海峡で着任、約4ケ月間シンガポール方面で行動した。

足柄が佐世保で改装中、「46警備隊付(副官)」発令、5月初めヤップ島着。この南海の小島で、対空兵器も無いところへの、連日空襲の悪戦苦闘、言語に絶する辛酸をなめ終戦。部隊員を復員させて後、最後に21年3月1日浦賀に帰還上陸、海軍生活を終える。

昭和21年3月以降、約7年間漁業に従事、トロール船等で北海道周辺から東支那海、台湾方面まで行動されたという。

昭和28年8月海上警備隊入隊、23年間勤務された。この間、護衛艦もがみ艦長、第九護衛隊司令等指揮官として勤務し,上下の多大の信望を得られた。また幕僚として、舞鶴、呉各総監部の第三班長、海幕の募集班長として重要な配置を歴任された。また第一術科学校教官、同総務部長、呉教育隊司令として隊員、とくに新入隊員の教育指導に情熱を注ぎ実績をあげられた。そして自らも研鑚、修練の機会即ち米国留学や甲種高等科学生、幹部学校学生としても十分その天性に磨きをかけ、指導者としてのカを身につけられました。

海上自衛隊退職後51年8月から6年間、松戸高等予備校副校長及び校長として少年少女の教育に情熱を捧げ得意の精神教育と厳格な躾教育をも重視し、生徒は勿論父兄や上下職員の信望と信頼を集めていたことは私どもの知るところ、心から頼もしくエールを送ったものでありました。

また、戦後40年たって放送大学に入學し、哲学、人間の探求を専攻され、教養学士号を取得されたことは、私共の鑑として敬服するものであります。

平成5年11月、多年にわたるわが国防衛に貢献された功績に対して勲四等瑞宝章叙勲の栄に浴くされました。

 ご家庭におかれては長年にわたる内助の功厚い奥様や、それぞれ立派なご家庭をお築きの二人のお穣様ご家族の皆様に囲まれ、幸せこの上ない晩年を過ごされた君はお孫さんたちの話をするときの笑顔がとてもさわやかでした。最愛の奥様を始めお子様お孫様そして友人の私共もこれまでと同様温かく見守ってください。池田君どうか安らかに永久の眠りについてください。さようなら。

平成10年1月27日

 海軍兵学校第72期クラス会

         幹事 藤田 昇

(なにわ会ニュース79号7頁 昭和58年9月掲載)

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