TOPへ     物故目次

平成22年5月2日 校正すみ

飯田武二兄の葬儀と想い出

  金枝 健三

 脳梗塞で療養していた飯田武二兄が平成16年1月29日に永眠致しました。

ここに 心から哀悼の意を捧げます。飯田兄は生前から自らを医学の進歩に役立てたいと、献体を希望して居りましたので、葬儀は左記の日時で行なわれました。

 日 時 平成16年3月13日 (土曜)

 斎 場 鎌倉 角喜(かどき)ホール

 当日は穏やかな暖かい日で、我がクラスからは 大森、藏元、佐丸、野崎、三澤、村山、室井、山下の諸兄と小生の9名、コレスの市瀬、左近允、槇原の諸兄、さらに55期の三号生徒 相田、大久保(顕)、前田、森(博)の諸兄が参列して呉れました。 逗子に生まれ、育ち、一生を逗子で過ごした飯田兄は、小学校、中学校の友人、そして地元の方達、それに加えて海上自衛隊関係、戦中の航空隊の部下の方、我々海軍機関学校など多数の参列者の見守る中、式はしめやかに行なわれました。 我がクラスを代表して大森が弔辞を読み、続いて機関学校の校歌をクラス全員で歌い、別れを惜しみました。

 式後続いて行なわれた精進落としは、会場の都合でクラス代表の村山と9分隊関係の 大森、三澤、小生、それに三号の森君が出席、ご子息 恵一氏(NHK勤務)の進行で故人の想い出が次々と披露され、今更乍ら穏やかで、優しく、抱擁力があり、然も常に悠揚として大人の風格を備え持った故人が、多くの人に慕われていたことを感じました。

 私の飯田兄への想い出は色々ありますが、終戦直後、時期は今では定かでありませんが、昭和21年?月に会った折に彼から飛行機整備の腕を生かし、自動車整備の会社を設立しないかとの話を思い出します。戦後の日本の自動車社会の想像以上の発展を 今思うと「〜タラ、〜レバ」の話しは如何かとは思いますが、若し実行に移しておれば、どの様な展開になっていたでしょうか。私は既に祖父の代からの家業を継いでいる兄の手伝いをする事にしていましたから、その話はそれで終って仕舞いましたが、飯田兄は本当に先見の明があったと、つくづく感じ入っている次第です。それと彼が未だ元気一杯であった昭和62〜63年、よく逗子駅で落ち合い 葉山國際CCで家内共々ゴルフを教えて貰いました。特に家内はその優しく細やかな教え振りに大変感謝しておりました。

 右手あげ「ヨー」と応えて 立つ姿

     笑顔と共に 浮かぶ逗子駅

 彼が平成五年一月、脳血栓で入院した年の秋、叙勲の栄譽の感謝の集いを鎌倉で挙行した時、不自由になっていた発声をお嬢さん達からの特訓を受けて、「ローレライ」を見事に歌いきった時の あの声は今でも耳に残っております。九分隊の一号時代、整備学生時代、そして戦後の「あの時、この時」と 本当にお世話になりました。有難う。

 長い闘病生活 お疲れ様でした、これからはゆっくりお休み下さい。そして奥様を始め ご家族の皆様を見守って上げて下さい。ご冥福を祈り乍ら さようなら。  合掌           

(なにわ会ニュース91号24頁 平成16年9月掲載)

TOPへ     物故目次