TOPへ     物故目次

平成22年5月3日 校正すみ

人は呼ぶ―伊吹・松田両君を偲んで 

矢田 次夫

 

私の人生の歩みの中で、大きくお世話になったクラスメートが、今年春に相次いで他界してしまった。その一人は伊吹明夫君、もう一人は松田 清君である。伊吹君は、在郷のただ一人のクラスメートであり、私が鳥取に帰郷する度毎に、温泉の多い当地のこととて、大浴場で文字通り、裸で語り合い、杯を傾けあってきた仲であった。また、松田君は整形外科の大家として、大きなクリニックの院長先生であった。私は以前になにわ会報でもふれたように、頚椎に関する難病と闘ったが、松田君は整形外科の専門であっただけに終始遠くの八尾市から、真剣にわが病状に心を砕いてくれた忘れ得ないドクターであった。

世の中には「たまたま」とか「偶然にも」とか、いうことがよくある。だが、しかし今回私にとってどうしても「偶然に」などとはいえない何かがあるように思えてならない。

それは、私に関わりが深かった両君が、それぞれ遠くへの旅立ちに近い頃、不思議にも彼らの病床に見舞っていることである。正に「偶然」である。おそらくクラスメートの中では、私が最後にお目にかかった期友ではないかと思っている。なぜ、このような時期に彼らの枕辺にいたのであろうか。「偶然」なのか? 「偶然」ではないのか? と自問自答している私である。「呼ばれたのかも」 などとも思いがめぐってくる。実は他の行事のついでに見舞ったことには間違いないが、そうだとしても、何故行事と行動が時期が重なる様になってしまったのか? 彼らに是非にでもと、呼ばれる程の間柄との自負も自惚れもないけれど、「偶然にも」と言っておれない不可思議な気がしている。そこにはお互いの人生の中で、あるいは織りなし、あるいは結び合った目にみえない一本の糸が、杵が繋がっていたのかも知れない。走馬灯のように駆けめぐる思い出の一端とともに、枕辺への経緯、病床の様子などを綴って、ご両人への感謝と心からのご冥福への祈りを捧げ、併せてクラス各位への報告とする次第である。

 

伊吹明夫君

彼は豪放森落、生来の快男子という語がぴったりの人物、ゴルフ場でのクラスの会話を聞いても嶺ける。「今日は伊吹のOBや池ポチャが見られないのが寂しいな」といわれるほどの人気者で、待望の星であった。

郷土での事業は、米穀、建材などを扱う商店を経営、「社長も庶務も小便も一人で二役も三役も…」と笑わせながら、自ら小型トラックを走らせていた活動家であった。私は毎年夏のお盆に墓参りに帰郷するが、彼は倉吉にあるわが家にも、たびたび立ち寄ってくれた。彼の長兄は、鳥取県の商工労働部長として要職を終え、ある協会に天下りされた。

次兄は、ご承知の通り海兵七十一期の伊吹寿雄氏である。

伊吹君は、かねてから鳥取ネービー会の会長として、海軍三校の出身者、在校生徒の方々とともに、海軍の伝統や思い出を郷土で大切に語り合い、継承しており、特に同会には、県の要人が多かった。例えば、私が現職の頃には、

平林氏―県知事、

浜崎氏―県会議長、

坂口氏―米子商工会議所会頭など、いずれも78期生徒、同期会の全国総会を鳥取県で実施した程である。 

幸いに、鳥取ネービー会に出席した時に、こんな県の要人が受付業務をしておられて恐縮したが、私も伊吹会長のクラスとあって、先輩面をしておられる海軍の有り難さをしみじみ感じたものである。この会の事務局担当が、77期の井上 旦氏(航空自衛隊、空将補で退官)で、氏は米、欧、豪など世界各地を駆け回っている国際派の元将官である。私は、同氏から外遊の度ごとに、詳細な話を得ている仲である。伊吹君の片腕として、県のネービー会を支えて来た立役者である。

私は雪の山陰で育っているが、寒いのは苦手である。したがって、ここ十数年は冬期の雪のある時期には帰郷したことがない。それが今年2月には、家族には暖かくなってからにしてはと、反対されながら帰郷した。理由は、郷里の自宅の敷地が、県道拡張のため、かなり大幅に削られることになり、門、塀のブロック、土蔵、車庫など道路にそっているものことごとく大移動となり、一向に定まらない事業予定や補償の問題など、県の担当者との折衝に苛立っての帰郷であった。空き家のわが家はとても寒く、夜はホテルにとまった。

鳥取地連部長は、私の帰郷を知り、この機会に県側の自衛隊に対する理解支援の増進強化を図り、郷土出身のOBの県知事(昨年春に改選され今回が初めて)、副知事への表敬訪問を予定したようである。その様な予定は知らないので、通常な服装で (スーツではない)帰郷しており、心中はためらったが、ままよと倉吉から車で約一時間、鳥取まで行くのであれば、伊吹君の病状はかねて井上氏から知らされており、是非とも見舞いをと決めた。予定の知事表敬を終え、早速鳥取市民病院に向かった。

寒風、吹き降る雪、「この雪は矢田さんを歓迎の雪ですよ」と言われても、心中はこの雪を降らす空一杯の黒雲のように暗かった。

既に病院で手配をし待機していた井上氏の案内で病室に向かった。

病床では、伊吹君はベッドの背を45度位あげて休んでいた。奥さんがつき添っておられ、酸素吸入の器具を鼻先に掛けていたが、顔色はさほど悪くなく、会話を出来た。彼は冗談めいたことも口にした。私は、軍隊調で「おい隊長、がんばれよ、病気に負けるなよ」 と激励し、握手をした。彼は元気よく握り返し、かなり力があった。会話は余り長くならぬ様にと、多くは喋らなかった。嬉しそうに笑顔でうなずいてくれた。世話強い彼は、ネービー会会長としての心配りも見せ、「ここの院長は75期だから会って帰れよ」という。

あまり気は進まなかったが、調整済と聞いて、院長の開場氏と少時面談した。

相変わらずの雪の中、病院を辞し帰途の車中で、付添の奥様に疲れが出なければよいがと気にかかった。この日は2月8日午後のことであった。

この後、3月20日0906、彼は遂に天国に召された、熱く握手を交わした日から約40日の後であった。

生憎予定の調整がつかず、帰郷して会葬が出来なかったこと、誠に申し訳なかった。せめてもの気持ちを弔電に託し、心情を伝えた。聞いてくれたことと思う。

「・…‥昭和15年、海兵入学以来の同郷の期友を失い痛恨の極み、かつて空に活きた貴君のこと、永遠 (とわ) に輝け、大空を駆けめぐりながら」

幸いに山陰の主、濱田秋朗君、戦闘機仲間の石井 晃君、中西健造君、大村哲哉君の期友が会葬されたと、ここに久しきにわたる友誼に深甚の謝意をこめ、遥かにご冥福を祈った。

 

松田 清君

松田君とは海軍兵学校、戦争従軍中を通じて起居、勤務をともにしたことはない。個人的にも接触はなかった。戦後、私が護衛艦隊の第4護衛隊群司令のとき、大阪港寄港の折の艦上パーティの席でお目にかかったのが、お初であったように思うが定かではない。

特に接触が増えたのは、私が海上幕僚長、統幕議長のころである。大阪方面で講演などのときには、終了後、松田君は阪神地区のクラスメートに声をかけて、よく会合などをしてくれたことを思い出す。私が統幕議長就任に際しては、わざわざ上京して議長事務室までお祝いにお出かけいただき感謝した。その節の議長事務室での写真が、現在も松田クリニックの食堂に掲げられている。それ以来、私が阪神方面に行動する場合には逆に私が松田クリニックに表敬に立ち寄った。何しろ、自分の部屋に軍艦旗や五省の額を掲げる院長だから、心の中には常に立派に海軍が生きていたと言える。松田君の要請により、訪問時には必ず非番の看護婦さん20〜30名に約30分位の防衛関連の時局講話をしていた。

松田君は 「俺も自衛隊に入っていたら、こんな制服を着ているんだぞ」と看護婦さんに言うのが口癖のようだった。私が退官してからも、昭和61年春のご子息(次男の方) の結婚式に招待されたことがある。来賓として八尾高校の同窓会長という公明党の矢野書記長が見えており、クラスでは池田武邦君もいた。披露宴後、クラスでのコーヒータイムに「海軍さんや自衛隊の偉い人の中に私も入れてもらえますか」と矢野書記長の申し出があると松田君の話、「どうぞ」と席をともにした。その当時は野党の公明党が、防衛に色々うるさい時代であった。これはよいチャンスと、書記長に好き勝手なことを申し上げ、毒づいたことがあり、痛快な思い出となっている (不幸なことに、このご子息が新婚旅行先のバリーで急逝された)。

また、松田君の教え子と言われる岡山医大の教授が、当番幹事で全国麻酔学会の総会(琵琶湖畔のホテルで)開催時に、松田君の要請により防衛講話など、いろいろの接触があった。特にここ数年間は、私が頸椎に難病を抱えたことが判明して以来、松田君には大変お世話になった。

「これは、大変に難しい手術になるので、手術はやめておけよ、特に第三〜第四頚椎の神経は呼吸を支配しているので、ちょっと間違えると呼吸が止まってしまうぞ」と、整形外科の専門の院長の言葉であるから、その恐ろしさに数年間迷い続けた。そのような時に、挫ける心を支えてくれたのが松田君であった。

「こと、ここにいたる、手も足も思うように動かない、このまま家族に迷惑をかけられない、少しでも良くなる可能性があれば挑戦するしかない、それで駄目ならあきらめもつく、松田君、やるぞ」と言葉を残して手術を断行した。手術の後が「寝たきりになるか? 車椅子か? さもなければ遠くの国に行くか?」 といわれながら、自分の足で、元気に、とことことわが家の玄関の階段を上がった。早速、松田君に報告した。

「矢田、よくやった、良かった、偉いぞ」おほめにあずかって、うれしかったが、本当はこの元気になった姿を見てもらいたかった。

しかし、しばらくは長途の旅行は控えるようにとのアドバイスもあり、松田君にはお目にかかっていなかった。その後に、こちらは良くなったというのに、今度は、松田君が入退院を繰り返しているという状況が聞こえて来た。彼は喉頭ガンの前歴があると聞いていたので、それとなく心配していた。

丁度、この4月11日〜12日に奈良で、イ号401潜水艦の戦友会が行われた。なんとしても参加し、すぐ近くの八尾の松田君を見舞いに訪ねることを計画した。

「院長先生(松田君のご子息) 松田君は私がお伺いしても、矢田ということがわかりましょうか? もし 分からないようでしたら、かえって、ご迷惑になりますので遠慮しますから」と電話でうかがった。

「大丈夫です。分かると思います」

と言う返答で、戦友会解散後直ちに近鉄線の河内山本駅に向かった。松田君は自宅で療養中かあるいは自分の病院で治療中と思っていた。しかし、八尾市の南、羽曳野市にある羽曳野病院に入院中とのこと、ここは彼の病状に最適の様子であった。そのために、院長夫人に大変ご迷惑をかけ、片道45分を車で飛ばしてもらい、おかげで待望の松田君に会えた。

「俺は難病を克服してこんなに元気になったよ」と、この姿をみてもらうことと、「頑張ってよ、病気に負けるなよ」という激励を送ることが、私の切実な思いであった。話をすると(たん)がのどにつまるので、余り話をさせないようにと聞いていたので、こちらが一方的にゆっくりと報告をした。顔色は少し暗い感じであったが、こちらの言葉に彼は頷き、にっこりと微笑んでくれた。私はとても嬉しかった。「喜んでくれております」と奥さんとともに私たちも喜んだ。「奥さん、長居をしないようにと聞いていますので、失礼しましょうか。彼が頷いて微笑んでくれたので本望です」と挨拶して、帰途についた。

その約一週間後、4月18日、彼も遂に天国に召された。直接ファックスが松田病院から入ってきた。4月21日、告別式とあった。なんとしても野辺送りにいきたい。当日の予定をやりくりし、急なことなので横浜駅では乗車できず、東京駅発とした。

阪神地区のクラスメートも多く会葬していた。軍艦旗に捲かれ、在阪神のほとんどのクラスメートのお見送りをいただいた松田君は、きっと喜んでいたに違いない。

私も、彼の顔の傍らに花も供えた。唇へのお水も浸した、敢えて火葬場までおともをして最後のお別れをした。

「静かに眠れよ、松田君 色々お世話になり本当に有り難う」

心から深謝しご冥福を祈った。

傍らに、院長先生のご子息(松田君の孫)は、素晴らしいおじいちゃんの様にとの誓いを胸に秘めながら、消え行く棺を見送り合掌していた。その姿が忘れられない。

ありのままに書き並べたが、十数年も帰郷したことのない、雪降る故郷に帰ったこと、予期していない県庁への訪問、昨年からの計画ではあったが、この時期に奈良での会合、あれもこれもまさに偶然なのか? 多くの友達の中で、最も深くかかわった友達が、二人とも揃って、この春先に天国に旅立ちその旅立ちに先んじて、それぞれの病床に罷り出た。

このわが身に思いを馳せ、何の縁か? ひとり悲しく細い一本の糸を手繰り寄せるような気持ちで、ここに供養の一文を寄せた。

(なにわ会ニュース83号10頁 平成12年3月掲載)

TOPへ     物故目次