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平成22年5月13日 校正すみ

比沢 勝君を偲ぶ

藤井 武弘

昭和63年に入り、なにわ会訃報第1号に比沢 勝君がなった。昨年12月末に浜田一郎君、坂田善一郎君と相次いで亡くなり、なにわ会諸君にも年波が寄って来たと思っていた矢先、新年早々に比沢君急逝の報を聞き、正月気分も吹き飛んで暗然たる心地となった。

 

奇言奇行の多かった比沢君であったことは有名であった。神戸二中同級生でもある小生が中学時代、兵学校や卒業後の艦船勤務も共通して過した関係上、最も遠慮なくお人柄を承知していると考え、思い出の記を述べさせて頂くことにする。

神戸市須磨海岸近くで比沢君は生をうけた。小生は山手の方であった。

 

(小、中学生時代)

彼は西須磨小学校に進み、小生は東須磨小学校で、西須磨小学校は所謂坊ちゃん育ちの者が多かった。その頃から既に横紙破りの我が道を往く性格は数々のエピソードを残していたらしい。このことは二中時代の同級生によく聞かされたものである。

神戸二中に入学して共に学んだ訳だが、彼の奇行振りは更に磨きがかかってきたようであった。午前中、4時限の授業が終って午食となるのが規則だったが、3時限終了と共に弁当箱を拡げてバクバクやるのは当り前、国語の時間には英語のリーダーを拡げ、英語の時間には数学の問題と取組んでいるといった調子でクラスの者はハラハラし通しであった。

当時の神戸一、二中はカーキ色の制服にゲートル姿だったが、彼の弊衣破帽振りがまた徹底しており、先生はもとより上級生によく注意を受けたらしいが一向に気にとめず闊歩して得意気であった。

その彼が中学4年時に、海兵受験をするというので皆が驚いた次第。 しかも教練の成績は乙か丙。(もっとも小生も乙であったが)結局、4年生から4名受験し、4名共合格した。故亀井 寿君、比沢君、小生、あと一名は入校後4号の時に病気退校となった。

中学時代の彼の成績は中位であった。つまり正規の考査試験には真剣に答えず、実力試験には全力を出すという正に実戦向きの彼一流のやり方を貫いてきたといえる。その証拠に兵学校の入学・卒業成績共中位で通してきたのが彼流の美学であり、斜に構えた生き方であったと思われる。

 

(兵学校時代)

兵学校当時は既に御承知の方も多いと思うが、彼の生き方は矢張り今迄通りの流儀を通していたと思う。

 

4号当時随分殴られたと言っていたが、本人はどうして自分ばかりこんなに殴られるのかと不思議に思ったらしく珍しくぐちをこぼして来たことがあった。

ところが、一号生徒になるや今迄なぐられた分はなぐってやると宣言し、例のカン高い声で「待テ」を連発した。特に被害を受けたのが、第一生徒館東北部分の三号生徒で、今でも分隊会での思い出話によく聞かされる。

一方、小さな悪事?か善行か?もよくやっていた。例えば食堂に銀蝿して食パン一本を砂糖共入手して屋上で巡検後下級生に食わせていたこともあった。勿論、休日外出時の饅頭持込み等は当然のごとくやっており、「喰え、喰え」と押付けられて閉口したことがある。

思うに彼は規則づくめの生活は毛嫌いし、彼なりの融通変化の生き方を常に求めていたと察せられる。卒業後一貫して海上勤務に終始した彼は、夫々の乗艦において、部下の掌握に、また戦闘指揮には十二分に本領を発揮し人気の高かった素地は既にこの頃から出来ていたと思われる。

(卒業から終戦まで)

第一期候補生時代の練習艦は戦艦山城に乗組んでいる。小生も山城で一緒だった筈だが余り記憶にない。何しろ天測とかその他訓練に忙し過ぎた。恐らく彼のことだからハンモックを担いで甲板駆足組に入っていたことは間違いあるまい。

山城生活を終えて正規の配乗になったのは空母瑞鳳乗組であった。一方、小生は軽巡那珂乗組を命ぜられトラック島に赴任した。

その後一年間の二人の出会いは後に述べることとする。

瑞鳳において彼は砲術士を命ぜられている。その当時クラスには山根眞樹生君、桂 理平君、石上 享君の4名であった。理数系が得意であった彼は機銃群指揮官として弾速とか敵機の進入速度とかに対する照準器の改善等に早速一家言を呈している筈である。

山城で別れて3ケ月後、小生の乗艦那珂は、昭和19年2月17日のトラック島大空襲に会い、終日の奮戦の未、遂に太平洋に沈んだ。

その時のクラスコレス5名は那珂及びその後の乗艦で全員戦死したが、幸い小生は重傷を負ったが病院船天応丸で後送され、3月に横須賀海軍病院に入院していた。そこへ彼が見舞に訪れて呉れたのだが、その見舞方か如何にも彼らしいやり方であった。

突然ドアを開けて海軍少尉の軍服で手にビールを三本ぶら下げて入ってきた。小生は当然まだ候補生だと思っていたので驚いて聞くと三月十五日に任官したという。こちらは全身包帯を巻かれて1ケ月を横になったきりなので急に彼が随分偉くなった様な気がした。

「御苦労さん、まあ一杯ド‐ヤ」

が第一声であった。その次のせりふが、

「その姿では飲むのは無理だナ、代りに俺が飲んでやるからナ」と、とのたまった。

同室に入院中の準士官が一人いたのに対して、「どうです、一杯」「いえ結構です」 の押問答の末、やがて二人で機嫌良く酒盛りを始めた。検温に入ってきた看護婦には「黙っておれヨ」と一喝。横で寝ている小生を肴に散々気炎を上げて「じゃあ頑張れよ」の一言を残してそのまま引揚げようとしたので、頼むから空瓶を持って帰ってくれとお願いしてお引取り戴いた。

これも彼流の見舞法であったと思う。この次の彼との出会いは、今度は逆にレイテ海戦で彼が助けられる番となる。

7ケ月後の昭和19年10月にはレイテ海戦が始まった。彼の乗艦瑞鳳は空母4隻の中にあり、小生の乗艦伊勢も共に小沢オトリ艦隊としてフィリッピン東方海上に出撃した。

 

オトリ艦隊の壮絶な死闘振りは、海戦史に詳しく知られており、今更述べる迄もないが、4隻の空母が全滅してゆくのを見た時は、悲痛とも何ともやり切れない気がした。

 

彼の乗艦瑞鳳は瑞鶴が沈んだ後、しばらくして、大きく傾きながら太平洋に没していった。

傾いた甲板から乗員が海中に転り落ちるのが見えるだけに、「今度は彼が参ったナァ」と思った。海上を漂流する乗員救助に駆逐艦桑が近づいてゆき、小生の乗る戦艦伊勢も両舷停止の危険を冒して救助活動に入った。

結局、瑞鳳にいたクラス四名は石上君が負傷したが他の比沢、山根、桂の3君は元気に桑に救助され、後に伊勢に移乗してきた。その時の第一声が

「やられたァ」

であったがすぐ艦内に姿を消していった。

当時小生は中尉で中甲板士官配置だったので、負傷者や戦死者の処置と伊勢自艦も各所に披害浸水しており対応に大童で、元気な救助者を省みる間がなかった。

やがて一息ついた後、現われ出でたる彼は小ざっぱりした服装に着換えていたのであった。曰く。

「貴様の部屋を従兵に聞いてナ、貴様の下着など身に合うものは貰ったからナ」と、あの大きな顔をもっと大きくして呵々大笑した。更につけ加えて曰く。

「泳いでいる時、桑と伊勢のどちらに上ろうかと考えたが、伊勢は大きいし大砲もドカンドカン打っており、どうも敵機がまた狙いそうだったのでやめた」と。

又、驚いたことに海中に入る時軍刀を持って泳いだという。そんな馬鹿なことをと反問すると、もし米軍に救助されそうになったら、叩き切るか自決をする心算(つもり)であったという。

「今度は世話になったナ」と彼が言ったのは、前の病院見舞に来たお返しを受けた心算らしかった。

戦勢いよいよ非となって更に8ケ月後には、彼は軽巡北上に乗っており、小生は空母海鷹に乗っていたが、相次ぐ艦載機の空襲と戦い続け、奇しくも昭和20年7月24日に場所は全く違うが、同じ日に沈む運命となった。

これで彼とは貸借なしで終戦を迎えたこととなる。

既にお分りの如く、彼は四角四面の陸軍が大嫌いでスマートな海軍に憧れて入校してきたのだが、矢張り海軍も軍隊であることに気が付いた時は手遅れで、彼なりに精一杯の反抗精神を発揮したものと思われる。

しかし、彼の庶民性と一視同仁的思想は、その優秀な企画統率力により部下からは尊敬と親愛の念を集めて人気が高かったことは間違いない。

上意下達が当り前である軍隊では、或は彼のやり方に毀誉褒乏があったかも知れないが、彼の愛すべき人間性には誰しも一目置かざるを得まい。

(結び)

戦後は郷里の神戸で衣料品雑貨店を自営して、町内会の世話もよくしたようである。広子夫人との間に3人の男児がある。何れも立派に成人し夫々独立一家を構えられている由。更につけ加えると、お孫さんは合計7人に達していると聞く。

慎んで御冥福をお祈り申し上げます。       合 掌

 

(あとがきとお詫び)

 なにわ会ニュース58号締め切り後に急いで書きましたので、関係者の皆様の御了解を得ておりません。悪しからず御了承下さるようお願い申し上げます。

(なにわ会ニュース58号11頁 昭和63年3月掲載)

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