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平成22年5月13日 校正すみ

故橋元一郎兄の葬儀及び弔辞

室井 正

 

 橋元一郎兄は8年に及ぶ透析の甲斐もなく平成18年2月5日永眠されました。

葬儀は神式(神葬祭)、鹿児島市内の葬祭場で六日通夜、7日葬儀としめやかに執り行われました。

村山兄と私が参列、お骨上げ、墓地埋葬までお供をし、ご冥福をお祈りしました。

弔  辞

橋 元 君

 2月5日午後8時、突然電話が鳴り、佐代子様の声で貴兄の訃報を受けました。

言うべき言葉を失い、何を為さねばならぬか混乱してしまいました。

 思えば、最後にお会いしたのは2年前、椎野夫妻と共に鹿児島を訪ね、貴兄の健康を考えもせず、嬉しさの余り、奥様の心配も忘れてしまい、3人で過ぎ去って来た思い出話に思わず鹿児島の焼酎を飲み過ぎてしまいました。之が最後となったあの日の事を後悔共々思い出す次第です。

 我々は、昭和15年12月1日海軍機関学校に入校しました。翌年12月には太平洋戦争に突入と云う事で繰り上げとなり、昭和18年9月15日卒業しました。

 意気揚々と第一線部隊に配乗、戦争の真っ只中に参加したわけですが、貴兄は戦艦山城、戦艦金剛へと乗組み、激戦の中に身を置く事になりました。

 貴兄との切なる思い出は、翌年19年7月海軍潜水学校普通科学生を共に命ぜられ、シンガポールで福嶋、藏元と合流し、4名一緒に、当時シンガポール根拠地隊の機関参謀であった45期の岡本教官の配慮により航空機で帰国する事となり、じ来大竹に在った潜水学校での短い学生生活を共にし、更に卒業後は岩間と貴兄、小生3名は、佐世保で新造中のハ201号、ハ202号、ハ203号潜水艦の機関長を拝命し、艤装訓練のあと第一線へと常に共に行動したわけです。

 終戦後、呉に帰投、更に佐世保に回航しました。昭和20年11月30日予備役となり、同時に充員召集を受けて共に海防艦の機関長として復員輸送を行ったわけです。

 復員後、先に東京で学生生活をしていた貴兄の忠告の下、入学試験の手配までして頂き、更に貴兄の下宿にもぐり込み戦後の生活を共に歩くことになったわけです。更に小生の就職の心配まで自分の事の様に心配して頂き、戦後の私にとっては貴兄なしでは全く考えられない日々の連続でした。

 橋元君、貴兄は鹿児島男児、面目躍如たるものあり、常に真剣に事に当り、機関学校で教えられたとおり、どの様な仕事にも全霊を捧げる行き方、戦中、戦後を通じて全く変わりない生き方をして来られたのです。私に取りましては常に頼もしいたよりに出来る同僚であり、兄貴であり、先輩であるとも云うべき偉大な存在でした。東京の仕事をやめて故郷に引上げられてからは離ればなれの生活でしたが、時折の連絡でも元気一杯、鹿児島を楽しんで生活して居られた様です。

 病を得ても平然と変わりなく治寮して居られた様子ですが、突然の訃報、本当に残念でたまりません。

一生を共にして来た橋元兄、先に逝かれた事 残念です。

心からご冥福をお祈り致します。

敬 礼

平成18年2月7日

機関学校第53期代表

室井  正

(なにわ会ニュース95号13頁 平成18年9月掲載)

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