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急逝した後藤英一郎君を偲ぶ。

泉 五郎

5月5日、後藤君の葬儀に出席のため水道橋で途中下車、少々時間が早すぎたので後楽園の辺りをぶらついて見た。昔この辺りは随分と馴染みの場所である。然し、余りの変りように昔の面影は更にない。ぼやぼやすると迷いそうなので早々と退散、地下鉄で白山駅近くの後藤家菩提寺の大円寺へ。流石お江戸のど真ん中恐らく、戦火で焼けて再建されたと思われるが、堂々たる古刹の面影が漂うお寺であつた。 後藤君は子宝に恵まれず、ご葬儀が淋しくなければよいがと心配したが全くの杞憂であつた。本堂には大勢の参列者が溢れるほどの盛儀、クラス会関係では絵描き仲間の平野律郎、若松禄郎、斎藤義衛と都竹卓郎、谷内能孝父子、戦記作家の片岡紀明などが参列した。
 大動脈瘤破裂という突然の悲劇であつたが、最後の別れに花を捧げた棺に眠る彼の面影は、正に眠るが如しと云う他ないような安らかなものであつた。
ご遺族にとっても只一つの慰めではなかろうかと、心中謹んでご冥福を祈った次第である。
 実は小生、海軍時代には殆ど彼とは接点がない。彼と親しくなったのは戦後もまだまだ物資欠乏、食うや食わずの時代である。昭和24年の春、郷里の兵庫県三田から新婚ほやほやで中央大学に入学した。座席もなく満員列車のデッキに座り込んで上京した私達夫婦にとってはこれが新婚旅行のようなものであつた。学生とは云いながら所帯持ちでは間借り先も中々見つからない。漸く探し当てた下宿先が国鉄「蕨駅」から東へ徒歩小一時間、当時青木町とはいうものの竹薮に囲まれた大田舎の農家一部屋であつた。その頃、蕨駅の反対側にあつた住宅地の一角に後藤君の家があつた。その彼の家にずうずうしく押しかけたのが、彼との付き合いの始まりである。後藤君のお母さんには我が子同様、快く迎えて頂きご馳走になった。ご馳走といっても食うや食わずの時代のことである。一宿一飯のもてなしと云うが、このとき頂いた味噌汁の美味しかったことは、何物にも換え難い一生の思い出である。然し、この蕨の大田舎では通学にも大変で、何とか東中野に新築バラックの貸間を見つけて其処へ引っ越した。とは云つても僅か四畳半、襖一枚の隣六畳には家主の老夫婦、便所も台所も共用である。
 ところで、クラス会の名簿では後藤君は慶応卒となっているが、実は同時に中央大学も卒業している。尤も彼は中大の講義には殆ど出席しなかったようである。

それはさておき、何とか卒業証書を手に入れて肩書きだけは学士様になったが、サラリーマンはどうも性に合わない。最後は鈴木 脩君の世話でこの千葉に酒屋として落ち着く事になったが、考えてみると我輩もいろんなことに手を出したものである。そして人のよい後藤君にも無理付き合いをお願いした。
 一つは京セラが開発した「クレサンベール」というエメラルド等の宝飾品、代理店を始めた際、早速彼は奥方の為に高価な一品を買い求めてくれた。彼の愛妻家の一面を偲ばせる一面である。

もう一つは金儲けではないが、些か気の長い通信碁のクラブで、これは約30年近く続けたが何しろ一局の勝負に数年かかるので、流石の彼も最後の頃には投げ出した。 尤も彼も小生とあまり変らぬか、或は少し強い程度のヘボ碁の類であつたが懐かしい思い出である。
 そして囲碁と云えば我が家の使わなくなった旧店舗の一室をご近所の為に碁会所として無料で開放している。その部屋の正面には彼の薔薇の絵が美しい彩を放っている。 私には彼を偲ぶ又とない思い出の品で、薔薇のように美しい後藤君の永久の眠りを衷心より祈る次第である。

なにわ会だより第3号

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