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平成22年5月14日 校正すみ

アメリカ人古川の死

白根 行男

 

  女子医大の霊安室に収まった古川の遺体に近づいたのは、昨年4月12日の早朝であった。前夜来、はとこの浅野さん、最期まで付き添ってくれた大阪産業大の加藤教授の二人が、日本流通夜の奉仕者であった。4月初めから投宿中の市谷アルカディア(私学会館)に彼を訪ね、彼依頼の手荷物をグランドヒル市ヶ谷に運ぶ赤帽役を果したのが、4月8日 (日)、かなりの風雨の日であった。

当日は、数年来かかわりの深いダニがらみの講演会が高島平公民館に予定されており、古川の8日の下阪予定にあわせ、赤帽役を引受けた次第であった。ほとんど腰の屈伸もままならぬ態の古川から、さして重くない旅行鞄をうけとる時、大阪から帰着後(11日)の投宿先であるグランドヒル市ヶ谷の所在を示し、「次にクラスの前に現れる時は、シャキッとした所を見せてくれよ」と言った別れが最後になった。 

ふり返ってみると、4月11日午後10時すぎ、寝入りばなに「嗣郎さんが死んだ」という報せがあり、少なからずうろたえたが、迷感を考えず、名村、溝井を呼び出し、フロリダの奥さんに伝えてもらった。近日中に、遺体の受領に当人又は息子が日本に向うという応答であった。

今から思うとおかしいのだが、その時点で当方の頭を支配していた重点施策は、いかにして確実にクラス会所定の香典を渡せるかにあった。

 結局、子息のダン・セバスチァン・古川が来日したのは、18日の夜であったが、その直前まで、遺族の到来予定ははっきりしなかったので、アメリカ人として死んだ古川の検分に、米国大使館領事部より派遣された係官を大使館に訪ねたりして相談したが、遺族又は所属のマグダネルダグラス社に直接渡すより方途はないということであった。

その間、12日の午前中に、牛込警察署刑事と大使館領事部係官の検分があり、病院の都合と領事部との合意によると思われるが正午すぎ、遺体は幡ヶ谷葬祭場の冷凍保存庫に向けて出棺した。

その後、関係者(浅野さん、加藤教授、小生及び古川の日本人妻との間に出生した長嶋氏)は、大阪より帰着後間もなく倒れこんだというグランドヒル市ヶ谷のツインルームに集い、領事部員立合いの下で、遺品整理にあたった。

古川は、旅程通り8日に大阪に出発したが、出迎えた加藤教授は弱り果てた古川の容子に驚き、教授の自宅に案内して、奥さんと共に介抱にあたったという。予定されていた講演は同行のブキャナン氏が代行したとのことであった。

その加藤教授が「このベッドで崩れた古川さんに、先生! 生きていて下さい。死なないで下さいと繰返したのです」という時、眼は涙で一杯であった。久し振りに接する、人の熱い真心であった。

女子医大出棺にあたっては、病院の費用を払う必要があり、一同合意の上で、古川の所持金の一部をもって内金とした。時刻を合わせて、二人の白衣の担当医が枢の前に額づき焼香した。

ここまでは正しく日本のしきたりであり、伝統であったと思う。

 ここで、伝統という言辞に近年ひっかかっていたことを告白したい。兵学校連合クラス会には、今迄2度位しか参加していないが、大先輩の式辞あるいは挨拶に、栄光の海軍の伝統を承継し云々の用語があり、あれだけの惨敗に終った海軍に、滅んでしまった海軍に、今なお残る栄光の伝統とは何を意味するのか不思議であった。強いて残っているものと思われるものは、一種の事大主義しかないのに、深く掘り下げないままの言葉で、戦中の日本の上下を覆いつくした、聖戦、悠久の大義などに類する空念仏ではないのかとの思いが強くなっていた。

そのうち、伝統という言辞は、明治時代の翻訳語であることを知り、平泉博士の「伝統」に対する反撥もあって、言葉の歴史の浅さから、みだりに使用すべきでないと心にきめてきた言葉であったのに、つい使ってしまった。

息子のダン・古川は十八日夜、相当の延着でホテル・ニューオータニに入った。迎えたのは浅野さん、溝井と小生の三人、香典は、その食事の席で、溝井がネイパルアカデミー同期生のよしみを、正しい英語で説明しながら、日本流不祝儀袋のままダンに渡した。息子は翌日の便で遺体と共に米国に帰ったが、一度も柩の傍に近づくことはなかった。

初めてみる航空貨物用の保冷箱に収まった遺休に手を合わせたのは、築地の聖ロカ病院であった。(19日午前)参じた者は、名村、松崎、浅野さんと小生及び宇宙医学セミナーの主催者であった日本大学の2教授であった。

遺体となった古川は、幡ヶ谷葬祭場から聖ロカに移されていた訳だが、正確な理由はわからずじまいであった。

その間、遺品整理などに立合った大使館係員の上級者にあたるU氏(関係者の誰も会っていない)が、古川はアメリカ人であるが故に、その生命、財産の保全責任は大使館が負う、幡ヶ谷の遺体は即刻聖ロカに移せ、古川の所持金の中から女子医大に支払った約十万円は直に大使館に持参せよ、など、あたかもアメリカ人古川の人権を侵害したかの如き暴言、虎の威を借る悪代官の如き威圧的言辞が浅野さんに浴びせられた。一方、立合いで面識のある係官からは、U氏の非礼に対し抗議するよう要請があったりした。

当惑しきった浅野さんの力になるべく、翌13日、溝井を交えて相談し、外務省のどこかに訴えてみることになった。

ここで、江田島3年のご利益が登場する。

電話番号を暗じている押本に打診した所、米国大使館にいる常野君という73期を紹介してくれ、事態は急転落着した。

近親の情から、何とか墳墓の地である熊本に分骨したいという浅野さんの希望とか、事態の経過をU氏やら立合いの係官、マグダネルダグラス社に聴き合わせた上、玉虫色の裁きとして、次のような常野氏のコメントが下った。

 「古川さんの死後に残されているものは、アメリカの法律関係のみである。そこには、日本人の一切の友情、愛情など介入の余地はない。MD社が、古川死去に伴う費用をみることになったから、関係者はMD社のみを相手にして欲しい。息子の来日予定は17日、実際は、息子の来日が18日となったことは前述したが、古川と同行していたブキャナン氏には、古川急死の報は届いていたが、病院にかけつけることもなく、予定通り12日の便で帰国してしまっていた。

我々関係者は、日米の習慣の違いに一驚すると共に、文化摩擦の根底を考えさせられた。

泰西名画でみた覚えのある、数々の聖セバスチャンの殉教と、息子のクリスチャンネームとは、古川のファミリーではどう結びつくのか、古川本人に聞く機会は永遠に失われてしまった。

一方、昨秋刊行された帝国海軍提督総覧による海軍兵学校名簿では、期外に整理されている瓜生外吉大将の項は、殊の外の驚きであった。つまり、大将はアメリカに留学し、アナポリスを1881年(明治14年)、第37期生として卒業しているのだが、在校中、YMCAの会長に選ばれたことが記されており、又アナポリス教育の特色として、徹底した宗教教育が、当時から現在も行われているというのである。アナポリスがそうなら、ウエストポイントもそうであろう。江田島の宗教は天皇教であったとしてよいが(水交36)、大いなるカルチャーショックであった。

教育は、当然、地球儀を廻しながら、地誌的な事物に即した、ユダヤ教、キリスト教、マホメット教を中核として、インドを起原とする仏教にも、長江流域の儒教にも及ぶはずである。又、宗教を阿片とするドグマにもふれるであろう。

そして恐らく、ワスプ(WASP)の世界に冠たる由縁を歴史観として、自信としてうえつけてきたのではあるまいか。残念ながら、天孫降臨民族としての特異な自覚とは次元を異にするように想像できる。

それが、全地球の民族、文化及び資源を含めての視点となると思うと、先の湾岸戦争で仮借なきまでに発揮された、オイルパワーを確保せんがための米国の戦略・戦術に、日本政府はどの賛意を表する気にはならないものの、日本占領から始まる戟後の経過に感じられるモデレートさ故に、畏敬の念を禁じ得ない。そのような源流の一つに、アナポリスがあるような気にさせたのが、古川の死と、子息ダン・セバスチャンであった。

この辺で摘筆しようと思った時、ふと浮かんだ想いだが、桜の樹の下で死にたいという古川の執念が、昨年4月の末期であったのかも知れない。

*   *   *

終りに、古川の臨終を看とってくれた加藤教授とはとこの浅野さんに、深甚の謝意を表わすと共に二人の連絡先を記しておきます。(連絡先 略)

(なにわ会ニュース65号9頁 平成3年9月掲載)

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