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平成22年5月14日 校正すみ


藤野竜弥君のこと

名村 英俊

藤野竜弥君が逝った。去年の末から鎌倉の高橋猛典君の所へ入院していたが、「がん」との戦いはついにむなしかった。6月23日午後8時。安らかな最後であったと聞くことがせめてもの慰めである。

彼との出合いは赤煉瓦の44分隊で一緒に4号生活を踏み出したときに遡る。一言でいえば彼は極めて不器用な4号であった。一変した環境に戸惑って右往左往したことは皆同じではあるが、彼のそれはいささか特別であったように思う。この分隊は69期、70期を通じてバランス感覚については申し分ない一号だったから、音に聞く某・某分隊ほどではなかったにせよ、彼にとっては苦労の多い一年であったはずである。後年の述懐によれば、海軍に入ることは必ずしも彼の初志ではなかったという。代々の医家に生れた彼にとって道はおのずから別にあったとすることもうなずけるところであり、同じ世代をゆさぶった時代の波と思はざるを得ない。しかし、彼はこのことのゆえに、およそ愚痴とか泣き言をもらしたとのない、しんの強い男であった。そしてどちらかといえば華著だった身体に鞭打って頑張った。共に哀歓を分ち合った14名の4号も中西健造君とふたりだけになってしまった。

それぞれが個性を取りもどすゆとりのできる2号と1号を彼がどのように過したのかは分隊も班も違っていたので知らない。

彼と再会できたのは19年の春、同じ11期の普通科学生として大竹の潜水学校に入ってからである。その間彼は練習艦隊で八雲に、実施部隊では金剛に乗り組み暗号士と副砲発令所長を経験している。もう押されっぱなしの戦勢で、潜水部隊は特に切羽詰った情況にあったのだが、71期の中尉学生も、72期の少尉学生もとにかくよく学び、よく遊んだ,つかの間の学生生活であった。艦隊ずれのした豪傑が多かったので、逸話には、こと欠かない梁山伯であったが、彼は江田島時代と変らぬもの静かな、まじめな学生生活に終始した。卒業後直ちに参加するはずの苛酷な潜水艦戦の実相に対して、決して自らを逃避することなく地道な修業の道を歩んでいたのだろう。この時代の彼の消息に最も通じているはずのルームメイトも久住、増田、青木、藤範とすべてが南の海に征って帰らない。

8月、普通科教程を終えた34名のクラスメイトはそれぞれの配置についた。彼は伊175に乗り込み,しばし待機の姿勢にあった。あるいはこの頃すでに健康を損なっていたのかも知れない。その年の暮れから20年の3月迄岩国の海軍病院に入院し、退院後は安浦海兵団、ついで潜水学校附として終戦を迎える。

戦後の彼は、海上保安庁の巡視船や観測船に乗って海上勤務が長く、時おりの消息は耳にすることはあっても会うことは絶えてなかった。参拝クラス会が定着してから間もなくだったから40年代の初めと思うが、クラス会で戦後初めて彼と会った。年を感じさせない顔、形や特徴のある話し方まで、すべては4号時代のままであった。散会後一緒に食事をして積る話をした。

最後に会ったのは今年の5月。長い闘病生活のせいでか、髪が随分白くなっていたが、声にも張りがあって思ったよりずっと元気に見えた。あるいは彼のことだからそのように気ぼっていてくれたのかも知れない。ただ運動不足のせいか足が衰えたこと、食事がうまくないことをぼっりといった。

葬儀は6月25日、鎌倉の浄智寺で行われた。すべては高橋君の行き届いた配慮のお陰であり、クラスも多数参加した。棺を覆うとき、小さくなった彼の死に顔を見ながら,改めて60年の彼の生きざまを思って涙がこぼれた。海の縁でつながるクラスのなかでも結局彼が、多分初志ではなかったであろう海軍生徒から始まって最も長く、事実彼にとっては文字通り人生の終着まで、海とかかわって生きることになった因縁の不思議を思った。

藤野竜弥。威名、釋聞信。遺骨は日本海を望んで越前の故山に眠る。

 

追 記

 7月に入って頂戴した嗣子幸浦君のご挨拶状にひろ子未亡人の追悼句が記されている。

   なぐさまむ 寺苑に桔梗  海の色  ひろ子

 葬儀の日、浄智寺は紺青の桔梗と、紫陽花が満開であった。同じころ、彼が最後に船長を勤めた測量船「拓洋」が船令のため解体されるという新聞記事が出た。これも何かの暗合であろうか。

 

 藤野ひろ子(竜弥の妻 7月14日)

(前略)藤野が亡くなりまして3週間が過ぎてしまいました。長い間留守がちでしたので、ふっと現われそうな気が致します。

入院中は同期の皆様には度々お見舞を頂き、どんなにか励まされ慰めを頂きました事かと心より御礼申し上げます。私共不治の病と聞きとてもつらく思いました。

高橋先生も尽し甲斐のない悲しいお気持を深くお詫び申しあげます。

 高橋先生御夫妻、同期の皆様のお陰で、浄智寺での心からなるお葬式をして頂きましてせめてものなぐさめでございました。なにとぞ誌上を借りまして、厚く御礼申し述べて下さいますよう御願い申しあげます。

(以下略)

(なにわ会ニュース49号25頁 昭和58年9月掲載)

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