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99号


 
戦艦武蔵の最後

編集部

 

レイテ作戦時、ブルネイから武蔵沈没までの写真を宮田實君が送ってくれた。

 武蔵については「なにわ会ニュース」に殆ど記載されていないが、海軍機関学校53期の「海ゆかば」に「戦艦武蔵とともに」と題して村山隆君(武蔵内務士・戦闘配置第2防御指揮所)の記事があったので、武蔵沈没時のところを転載させていただいた。

 

『十月二十四日、艦隊はシブヤン海を東進、この日は、武蔵にとって運命の日となった。

 十時三十分頃から十五時三十分頃まで、五次に亘る米軍機の空襲をうけた。

ズドーン、ズドーン、ズドーンと二十秒〜三十秒間隔で腹部に響くような発射音、次にダーン、ダーンと鈍い音、続いてパン、パン、パンと絹を裂くような連続音に変ってくる。最初の音が主砲 (46cm砲)、次の音が高角砲 (12.7cm砲)、最後の音が機関銃(25mm13mm)のものである。敵機接近の状況について艦内放送があるが、これらの音の変化で、飛行機が次第に艦に近づいてきて頭上に達したのだと判断することができる。

 第一次空襲(1026〜1040)時、右舷中央後部付近で、ドーンという音がし、艦が左右に揺れるのを身体に感じた。主砲の発射か、魚雷の命中か判断に迷う程度の揺れであった。暫くすると艦が右舷に徐々に傾斜し始めたので魚雷の命中であると判断できた。(魚雷1本右舷中央後部に命中) 左舷防水区画への注水が行われ、五度位の傾斜は、直ちに復元した。迅速な傾斜復元能力に大いに自信をもったものである。

 第二次空襲(1207〜1225)は、左舷側の攻撃が多く左舷前部に魚雷を受けた。(魚雷3本命中) 船の傾斜は、注排水操作により復元につとめ、左舷への傾斜1度位まで復元したが、艦首が浸水によって沈下(2m位)し、速力が低下した。(22ノット) 

 第三次空襲から第五次空襲(1330〜1530)は、多くが武蔵に集中し、多数の魚雷が命中した。(魚雷左舷10本、右舷7本命中) 空襲が終った頃には左舷へ大きく傾斜(10度)し、艦首左舷部はさらに沈下し、海水に洗われ始めていた。

(8m沈下)

第五次空襲が終った頃には防禦指揮所と注排水指揮所との電話連絡がとれなくなっていた。そこで、指揮所を出て後部注排水指揮所に移った。

艦の傾斜が5度位までのときは、何とか歩くことができるが、10度を超えてくると滑って歩くことが難しく、手すりや突起物などにつかまってやっと歩くことができた。

空襲は、1530分で止んだ。

 防水区画への注排水、右舷後方居住区への注水、右舷第三機械室への注水、重量物の右舷への移動など傾斜の復元につとめ、傾斜は5〜6度位まで復旧安定していた。 懸命の傾斜復元作業にもかかわらず、左舷前方への傾斜が徐々に進み手の打ちようがない。1850分頃機関が停止した。

 総員上甲板の指示が伝わってきた。

 私は殆んど垂直になったタラップを昇り艦外に出た。右舷後甲板3番砲塔の付近であった。すでに夜のとばりは下りて、あたりは暗く、月の光で漸く近くの者を識別することができた。

下士官で気転のきく者がいて、握り飯を烹炊所からもってきていた。急いで食べた。朝食を始めようとしたとき、配置に付けの命令が出て食事をとりそこない、昼は、戦斗配食で応急用糧食のカンパンだけしか食べていないので、この握り飯は非常に美味しかった。

 負傷者を艦尾から退避させる処置などをしていると、急速に艦が左舷に傾き、甲板上の人や物が左舷の方に滑り落ちていった。私も滑り落ちた。しかし海面にまで達しないで「何かのところ」で止まった。その上に人が折り重なってきて身動きがとれない。私はおし潰されるのではないかと観念していた。そこへ海水がきて投げ出される感じで海中へ吸い込まれていった。

「何かのところ」を後で考えてみると、砲塔の側面が艦の左舷への傾斜で水平になり、砲塔の右側にいた私は、左舷に滑り落ちていってその部分で止まったのではなからうかと思う。息が苦しくなり、夢中で浮上動作をした。数回海水を呑んだ。海面に顔が出た。

 ほどなく艦の中央付近から火柱が上り、艦尾のスクリューが立ち上るような格好で武蔵は沈んでいった。

重油の中、材木、マットなど浮いているものにつかまり、助かった者が集まって自然にグループをつくり、軍歌を歌い、声を掛け合い、笛を吹いたりして(私は首に警笛をぶらさげていた)、互に励まし合いながら漂流した。

 浜風、清霜の二隻の駆逐艦に、生存者の収容が終ったのが2330分頃である。武蔵が沈んだのは1935分、約4時間海につかっていたことになる。

 私は、浜風に救助された。身体に付着した重油を洗い落していると、顔に血が流れてくる。右前頭部に手を当ててみると血がついている。艦内医務室で直ちに手当をうけた。6針の縫合であった。沈没のとき落下物が頭に当って負傷したものと思う。夢中の行動で、気が張っていたので負傷に気付かなかったのであろう。

 生存者を乗せた浜風、清霜はマニラに向け航行を続けた。

 途中、対潜警戒配備が発令されたとき、付くべき配置がなく待機しているのであるが、このときほど恐ろしく思ったことはない。武蔵がさんざん叩かれているときや、まさに沈没せんとするときでも全然恐怖心が起らなかったのに、どうしたことであらうか、責任感の違いであろう。』

 武蔵関連の写真について(掲載略