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99号 

 

左近允尚敏元海将インタビユー

  

 

『ジェイ シップス』2008年春季号 (イカロス出版)  サイレントネイビー連載第10から

─左近允さんのご家族は、たいへんな海軍一家ですね。

 左近允 祖父は逓信省の役人でしたが、父が海兵40期、兄も兵学校に行き、69期です。そういう環境でしたから、私も小さい頃から自然と海軍に行きたいと思っていました。

小学校、中学校は横須賀でしたが、ここは軍港で、海軍とは切っても切れない関係があった街です。横須賀中学にも海軍軍人の子弟が大勢いましたね。

中学4年になると兵学校の受験資格が得られます。早速願書を出そうとしたところ、母が判を押してくれない。兄は兵学校に行かせたが、弟、つまり私は高等学校に行かせたかったようです。そこで母には内緒で、当時中国在勤だった父に願書を送って判を押してもらいました。母もあっさり諦めて受験できたという次第です。

 ところが、兵学校に入ってみると、毎日怒鳴られるわ、殴られるわで、しばらくは、ひどいところに来てしまった、父か兄が予備知識を与えてくれていたら、多少は覚悟ができていたのにと思いましたね。 


─やがて日本とアメリカはついに戦争へ
と突入します。兵学校在学中のことですね。

 左近允 ええ。私が入校してちょうど1年後、次の73期が入ってすぐ太平洋戦争が始まりました。開戦当初、ハワイ、マレー沖、シンガポールなど連戦連勝ですから、早く卒業しないと戦争が終わってしまうんじゃないかと本気で心配したものです。日米の国力の差などまるで知らなかったんですね。

しかし、私たち72期が卒業した昭和181943)年9月にはもうずいぶんと戦況は悪くなっていました。米軍の反攻が始まったガダルカナル上陸はこの1年と少し前、米軍がこれからギルバート、マーシャルに侵攻しようと準備を進めている時期です。

卒業後、まず戦艦「伊勢」での2ヵ月の乗艦実習を終え、11月にはトラックを基地にしていた第3艦隊の重巡洋艦「熊野」の乗組になりました。「熊野」での私の配置は航海士、艦橋で航海長を補佐するのが仕事です。

「熊野」はそれからニューアイルランド、パラオ、フィリピン方面を行動し、昭和191944)年6月のマリアナ沖海戦に参加しました。この海戦で、「熊野」は発砲こそしましたが、敵機、敵潜水艦に直接、攻撃はされませんでした。初陣というのは全然怖くない。戦争とはどんなものかを実感するのは、タマの下で自分の周りに死傷者が出る、フネのあちこちが損傷する、それを目にしてからです。

私の場合、それはその年10月のレイテ沖でした。私事になりますが、レイテ沖では父が戦隊司令官として乗っていた軽巡「鬼怒」、兄が砲術長として乗っていた駆逐艦「島風」、私が乗っていた「熊野」、3人が乗っていたフネが3隻とも沈没しました。この海戦でいかに多くの日本海軍のフネが沈んだかを示していると思います。

 

─レイテ沖海戦では、「熊野」もずいぶん激しい攻撃を受けたようです。 

左近允 帝国海軍の艦艇の多くが沈没しましたが、「熊野」ほど1ヵ月間にもわたる一連の激しい戦闘の末に沈んだフネはないと思います。

昭和191022日、「熊野」は栗田健男中将が率いるいわゆる栗田艦隊の一艦としてボルネオ北岸のブルネイを出撃、レイテ湾に向かいました。翌23日の朝、敵潜水艦2隻の雷撃を受け、栗田長官の旗艦だった「愛宕」が沈没、「高雄」が大破して落伍し、次いで「摩耶」までもが沈められました。いずれも重巡です。

旗艦を「大和」に変更した艦隊は翌24日終日、フィリピン中部のシブヤン海で、ルソンの東方にあったハルゼーの機動部隊からの激しい航空攻撃を受けて「武蔵」が沈没、重巡「妙高」が大破、落伍しました。

敵機を邀撃してくれる戦闘機が上空にいない、いわゆるハダカの艦隊でした。

その日の夜にサンベルナルジノ海峡を抜けた栗田艦隊は25日朝、サマール島の東岸沖で思いがけず敵の護衛空母部隊と遭遇して戦闘になりました。水上戦闘と対空戦闘を同時にやったのは世界の海戦史でこのときの栗田艦隊だけでしょう。「熊野」は30分ほど経ったところで敵駆逐艦の魚雷を受けて艦首を吹き飛ばされました。激しい衝撃とともに目の前に大きな水柱が上がり、それを艦橋が突き抜けて艦首がなくなっているのを見たときは胸が冷たくなりましたね。「熊野」は14ノット以上の速力が出せなくなって艦隊から落伍、単艦でブルネイに引き返すことになりました。艦隊の一艦として行動しているときは、敵機にとって目標はたくさんあるわけですから攻撃は分散します。しかし25日朝、落伍してからは単独行動です。飛来した敵機は全部「熊野」を狙ってくることになりました。

25日昼頃、早速「熊野」を攻撃してきたのは、なんと味方機でした。サマール島東岸沖で味方の水上爆撃機3機、次いでこれも味方の雷撃機1機から誤爆されたのです。夕方サンベルナルジノ海峡ではついに敵機30余機が来襲、命中弾こそなかったものの、至近弾で若干の被害が出ます。

26日朝、ミンドロ島南方でも30余機が来襲、爆弾3発命中し、「熊野」は一時航行不能になります。29日にはマニラ湾で約20機が来襲、11月5日、ルソン西岸沖では敵潜水艦4隻に次々と雷撃され、向かってきた計23本もの魚雷の内、最後の2本が命中、艦の前部は切断、機械室も満水となって再び航行不能に陥りました。小型タンカーに曳航され、翌6日にようやくルソン西岸サンタクルーズ湾に投錨、以後機関の修理に努めることになりました。

1119日は16機が来襲。25日には30機、これが最後となりました。魚雷5本、爆弾4発が命中し、ついに「熊野」は沈没したのです。乗員1125名中、沈没時までの戦死498名、その後ルソンの陸上戦闘で戦死497名。結局、最終的な生存者は130名となっています。

「熊野」が戦った敵機はすべて艦上機です。

水上艦の魚雷、潜水艦の魚雷、航空機の魚雷のすべてを受けたフネは「熊野」だけでした。主砲はともかく、使える高射砲と機銃が次第に減ってくると、航空機に十分な応戦ができなくなってきます。さらに速力が低下すれば魚雷や爆弾を回避するための運動が鈍くなって当たりやすくなる。最後の1125日は、打ち上げる対空砲火もまばらな上に、真珠湾のアメリカの戦艦のように動かない攻撃目標になっていましたから、魚雷も爆弾もよく当たりました。沈むまでは、乗員も何とか「熊野」を動けるようにしようと必死で働きましたが、その前に沈没してしまった。攻撃されなければ12月上旬には動けるようになったかと思います。しかし動いても最大6ノット、実速5ノットという見込みでしたから、無事に本土まで帰れたかどうかは疑問ですが……。

 

―「熊野」のしぶとさはアメリカ側の記録にも残っていますね。

 左近允 艦隊から落伍して以後、沈む前日までの1ヵ月に「熊野」を攻撃したのは、敵の航空機延べ約170機、潜水艦4隻で、命中した魚雷は3本、爆弾は3発、よく沈まなかったものです。巡洋艦で魚雷3本を受けて沈まなかったのは「熊野」だけだと思います。潜水艦の魚雷が2本命中したときは、今度こそ駄目かと思ったものです。アメリカ側の文献の一つに、「『熊野』はなんとしぶといことよ!(Persistent KUMANO!)」と記されているほどです。

 

─「熊野」が「しぶとかった」のは、何か特別な理由があったのでしょうか。

 左近允 まず、厳しい状況の中での人見錚一郎艦長の指揮が実に立派だったからだと思います。毅然とした態度で適切な指示命令を出されました。士官を含め全乗員が敬服し、「この艦長の命令なら」という気持ちでいました。

もう一つは、今の若い方にはピンとこないかしれませんが、「お国のために」という気持ちが乗員たちの誰にもあって、一生懸命自分の職務、任務を遂行したからだと思います。今思い出しても、あれだけ苦しい戦闘が続いたのに乗員の士気が全く衰えなかったことに感嘆します。それが「熊野」のしぶとさを生んだのでしょうね。動けなくなってからも乗員は何とか「熊野」を日本までもっていって修理し、また働けるようにするんだという目標と希望をもって仕事に取り組んでいました。 


─沈没後、泳いでいた「熊野」乗員は、敵機から銃撃を受けたそうですね。

左近允 ええ、「熊野」が沈没後、まだ上空に敵の戦闘機が2機と雷撃機が1機残っていて、泳いでいる乗員を機銃で掃射し、爆弾まで1発落とました。これは別に「熊野」だけの話ではなく、昭和201945)年4月の戦艦「大和」水上特攻部隊でも同じことが起きています。

今はだれもが無抵抗の乗員を機銃掃射したことを非難します。以前、横須賀で頼まれてアメリカの士官たちにレイテ沖の話をしたことがありますが、機銃掃射の場面が一番印象に残ったと士官たちが言っていたということを後で聞きました。

戦争の初期には敵兵救助の美談も残っていますが、昭和19年頃になると、そうした状況ではなくなったのです。戦後に報じられたことですが、ある著名な指揮官は「一人十殺」をスローガンにして部下を指導しています。米軍も日本兵はケダモノだからどしどし殺せと言って戦意をかきたました。日本兵の頭蓋骨を記念品として送る兵隊もめずらしくなかったといいます。

しかし、敵の顔を見ることのない海の戦いでは感じ方が違いますね。私は機銃掃射を受けているときも、「戦争とは食うか食われるかだ」と思っていましたから、搭乗員に憎悪の感情は持ちませんでした。1m潜ったら大丈夫という話を思い出して、機銃弾がこっちにきたら潜ろうと思っていた程度です。

 

―「熊野」が沈んだ後に乗られた駆逐艦も沈んでいますね。

左近允 「熊野」で生き残った乗員は掃海艇に乗せられ、沈没5日後の1130日にマニラに着きました。艦長、副長は戦死、航海長は重傷で、砲術長が「熊野」乗員の指揮官でしたが、12月3日に大日本航空のダグラス機の便があり、砲術長が帰国する士官を10名ほど指名しました。航海士には戦闘についての報告書をまとめる仕事があるので私も指名され、帰国した次第です。

呉で戦闘詳報の起案を含む残務整理の仕事を終え、昭和20年2月に神戸で建造中の駆逐艦「梨」の艤装員、3月に竣工後は航海長になりました。以後、「梨」は瀬戸内海で行動し、3月、6月、7月に一度ずつ高射砲、機関銃を撃ったことはありましたが、7月28日に艦上機数十機の攻撃を受けて沈没、私はまた泳いだわけです。

「梨」は竣工からわずか4ヵ月半で沈みましたが、戦後引き揚げられ、海上自衛隊の護衛艦「わかば」になって再度のご奉公をしています。一度訪ねたことがありますが、幽霊が出るのでお祓いをしてもらったという話を聞きました。

その後まもなく駆逐艦「初桜」航海長に発令され、呉から横須賀に赴任する途中の大阪で陛下の終戦の放送を聴きました。敗戦の受け取り方は軍人でも人によってさまざまだったようですが、私の場合は「やっぱり負けたか、悔しいが仕方がない」という平凡な感想でした。ただ近いうちに死ぬと思っていたのが先の話になったので、一種の戸惑いを覚えた記憶があります。

翌日「初桜」に着任し、8月28日、日本にやってくる戦艦ミズーリ以下の艦隊を伊豆大島の沖まで迎えに行きました。前日横須賀から館山に向かったときは、グラマンがマストすれすれに飛び回るし、大砲や機関銃をお辞儀した形にするよう指示されたりして、改めて敗戦の惨めさを感じましたね。

 

─たいへんな死線を体験したご経験から、特に若者に対して伝えたいメッセージがあればお願いします。

 左近允 まず、日本を守るために命を捧げた戦没者に敬意と感謝の念を持ってほしいと思います。

「心ならずも戦争に駆り出された気の毒な犠牲者たち」と呼ぶ政治家たちがいるのは嘆かわしいことです。そういう軍人もいたことは事実でしょうが、ほとんどの軍人はお国のため、家族を守るために懸命に戦ったのであって、そのことを忘れないでほしいですね。

戦前の軍は横暴で政治まで支配していたのは事実ですし、開戦時の指導部の判断に問題があったのは確かだと思います。が、戦争にまで至った原因ないし責任はアメリカにもありました。いろいろな本を読んで太平洋戦争についての自分なりの見方を持ってほしいですね。だいぶ前の話ですが、ハワイで会議があり、在日米軍司令官の空軍中将といっしょになりました。雑談の際、「アメリカの占領政策が日本人を骨抜きにしたと思う」と言ったところ、「2000年の長い歴史を持つ日本人が、アメリカの占領政策で簡単に骨抜きにされ、しかも数十年たった今もそのままというのはおかしい」と言われ、一本取られたと思いましたね。たしかに日本人自身の問題です。それにしても、「君たちのおじいさんや、ひいおじいさんたちはこんなに悪いことをした、アジアの国々にこんなに迷惑をかけたんだ」と力説する、反日的日本人と呼びたい人たちが少なからぬ影響力を持っているのは残念なことです。できれば若い人はなるべく外国を見てほしい。そして日本という自分の国の歴史と現状に常に関心を持ち続けてほしいと思います。