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99号

 
沖縄戦慰霊祭に出席して

新庄 浩

 

 

                慰霊碑前の新庄浩   20年3月21日神雷部隊で戦死した小原正義君の名前が刻まれている。

あの戦争の最終段階の場となった沖縄では、毎年6月23日、県民の犠牲者、陸海軍軍人、そして米軍軍人、併せて24万余名の人名を石碑に刻み平和の(いしずえ)なる摩文仁の丘広場で、慰霊祭を行い喪に服して平和を祈り二度と戦禍のない事を島民全員が願って止まない。

1、慰霊祭の概要

日時、平成19年6月23日正午

場所、平和の(いしずえ)摩文仁の丘広場

出席者、政府より安倍首相他随員

    沖縄県、知事以下関係者

    参加者、全島より県民約5千名

         旧軍関係者 約5百名

 神雷部隊関係者は2泊3日の予定で現地参集、2日間戦跡地見学。3日目は 慰霊祭参加、式後刻名碑を調べ、花束を捧げ黙祷を行い、英霊を偲んだ。しかし、膨大な数と当日の猛暑で全員の確認は不可能であった。

2、所感

(1)県民約10万名余、陸軍牛島中将以下3師団約8万6千人、海軍太田少将以下約1万名、米軍約1万2千余名、さらに、陸海軍特攻隊員4千4百余名、併せて24万余名の膨大な県民、軍人の名前、出身地を大型石碑に刻み、整然と並べて広大な敷地に作られた見事な墓地を見て、県民の長年にわたるご努力には全く敬服の一語であると共に、世界に比するものの無い景観である。

 

(2)沖縄戦最終段階の時、20年6月11日、海軍部隊司令官太田少将が小禄地区で32軍司令官牛島中将に(けつ)別電を、海軍次官宛に「・・・沖縄県民()ク戦ヘリ、 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と異例の電文を打たれた事はよく、知られており、また、その後23日牛島中将と長参謀長とが摩文仁司令部前で自決され、米軍上陸以来の激しい持久戦の幕が降りた。

一方県民も、12歳以上の少年(てい)身隊員の地下(ごう)を駆け回る立派な働き、女子ひめゆり看護活動のけなげな働き等、悲惨暗(たん)たる物語りは到底語り得ない。

年月を経て、慰霊祭の日、摩文仁丘は猛暑の中、全島から集る5千人を上回る県民の皆様は、明るく談笑されており、往時を偲んで緊張感で目が眩みそうな我等とその差は如何ともし難い事であった。

(3)神雷部隊については、菊水作戦下命以降、筑波空、谷田部空、大村空、元山空の4隊で編成された戦闘機爆戦隊が神雷部隊岡村司令の指揮下に入り、終戦まで特攻攻撃が続行されたので、総計では829柱の戦死者となっており、また、神雷部隊第1回総攻撃が九州南方を北上する米海軍機動部隊を攻撃したため、沖縄戦と区別された経緯もあり、沖縄県に対する手続きも遅れ、今回の慰霊祭当日までに刻名されたのは約90以下であったが止むを得ない事であり、我々も納得し御礼申し上げた次第。

 顧みれば、昭和20年1月2日朝「七二一空分隊長を命ず」との辞令を筑波空司令中野大佐より頂き、一瞬背中を突き抜ける緊張感を感じ、いよいよ特攻兵器桜花機の操縦員となる責任感で身が引き締まる感を強く持ったのを忘れる事は出来ない。神雷部隊着任後は第一陣が九州に展開した後、平野隊長兼分隊長(69期)の下で第2、第4分隊長として隊員約80名と共に桜花機の投下訓練を始め第2陣として4月14日鹿屋基地に進出するまで訓練に集中した。

 一方九州方面第5航空艦隊は、既に4月6日菊水作戦を発動して1次から10次にわたる沖縄戦に突入、陸海軍の総力をあげて航空特攻作戦を展開、水上特攻大和以下の出撃もあり、終戦に至るまで正に悪戦苦闘の連続であった。真に残念ながら戦い敗れ、航空特攻だけでも英霊四千三百余柱を数え、機材も底をつき、残存者は御霊(みたま)安かれと合唱するほか無かった。

(4)最後に、当時若輩であったこと、また、先輩方に非礼な点等お許し願って、若干私見を述べさせて頂きたい。

 当時彼我の総合的戦力は圧倒的な格差であり、最終段階の戦闘は日々に激しく、菊水作戦(1号から10号)の完遂は絶望的であった中で、明治以来俊英抜群の人材で固められた陸海軍の中枢幕僚である参謀職にあった方々の、戦術の考え方、作戦方針はどうであったか、勿論当時は我々の関知出来る話ではないが、結果的に見れば、航空特攻に限れば、比島方面で開始された神風方式が、引き続き踏襲され、約1年に及んだこと、桜花攻撃という神雷部隊の特攻方式も運用の困難さと性能の低さ等により、戦果は期待したほど達成出来ず、米軍に与えた損害は、心理面の恐怖が最大であったと後世の評論家の言うような状態であったとすれば、何らかの名案か、新しい有効な采配が振れなかったのか悔やまれる所である。

 さらに、比島方面特攻作戦の最高指揮官であった大西中将の壮烈な御最期と總持寺の墓所にある我等に示された遺書を拝すると、沖縄戦に関しては真に残念ながら何もなく、私費による國神社遊就館にあるパノラマ他記念碑、墓碑等が各地に数点あるのみであり、心痛むのは特攻隊各隊の慰霊祭に往時の幕僚高官の姿を拝見したのは戦後60有余年にして数度あるのみといわざるを得ない。

在天の英霊に対し衷心合掌するのみである。