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97号  


西岡孝君と松枝茂純君の死を悼む

  

  

5月初め、西岡 孝君(会津若松市居住)の娘 根本由貴江さんから、「ドン&デコ 愛・二人傘」という本を送って来た。それに同封された手紙に次のように書かれていた。

「父 西岡 孝は平成17年8月22日、胆管癌のため他界しました。1612月に癌の告知を受けましたが、積極的治療を拒否して自宅療養、自宅にて執筆活動をする道を選択しました。17年お盆の頃、腹水を抜く為数日入院したあたりから衰弱して、退院した翌々日天に帰りました。」

西岡君は17年まで年会費をキチット納入されており、18年3月、9月、19年3月のなにわ会ニュース、18年慰霊祭、年末クラス会の案内、すべて返送されておらず、お手元に届いていたものと思っていた。

頂いた本は長女の根本由貴江さんが両親を悼んで、両親の短歌、投稿を纏めている。これを読むと、彼は文筆家で多数の受賞歴をもっていた。 

西岡君は卒業後山城での艦務実習後、夕張、梅、海鷹で勤務、復員輸送業務に従事した後22年復員、慶應大学を卒業後東北電力株式会社、東北発電工業株式会社で勤務した後、妻の経営するシークドレスメーカー専門学校事務長を勤めていた。

続いて、5月25日浦本 生君から電話で松枝茂純君が19年2月12日肺炎で他界していたと連絡があった。

松枝君は私(伊藤正敬)が4号45分隊の時の3号生徒であったが、72期で一緒に卒業した。そして昭和30年私が海上自衛隊入隊した時、新入隊講習員の指導官付でいろいろと指導を受け、また便宜を頂いた。

講習終了後、その年の年末、私は護衛艦「あさかぜ」乗組を命ぜられて着任した。

着任すると、同艦には砲術長として椎原國康君、航海長として松枝茂純君がいた。珍しく同期3人が同一護衛艦で勤務する事になった。そして、翌年6月まで半年間、生活・勤務を共にした。

彼は72期のクラス会には全く姿を見せなかったが、平成6年高崎慎哉君が亡くなった時に告別式で会った記憶がある。

謹んでご冥福を祈る。

この両君の場合は、何ヵ月も、何年も経ってから訃報を知った次第である。

現在住所不明会員が兵学校卒で3名(赤尾正長・佐藤 達・池田道久)、最近連絡のない会員が兵学校卒で5名(石坂美男・加藤壽治・志滿 巖・西尾 博・本山和男)、機関学校卒で1名(松田 清)合計9名いる。

更に、この1年、2年、年会費の納入が無い会員も散見される。長い闘病生活中のものもいるが、クラス会の基本とも言うべき名簿は是非とも正しくしておきたいので、本人は無論の事、ご家族のご協力も得たい。

万一、会員にご不幸があったときは是非ご連絡をお願いする。また、会員で、友人会員の不幸を知った時は重複を厭わず、名簿係(当面 伊藤正敬)に一報をお願いする。

また、最近耳が遠くなって電話連絡が困難な者も増加しているので、FAX電話の併用設置をお願いしたい。