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95号 


金剛隊伊四七潜の戦闘


                                                                              小灘 利春

回天特別攻撃隊金剛隊の伊号第四七潜水艦は菊水隊に引き続き、昭和十九年十二月二十五日、大津島基地を出撃してニューギニア北岸のホーランジャ港を目指した。

艦 長は 折田 善次少佐(兵59期)。

水雷長  大堀  正大尉(兵69期)

航海長  重本 俊一大尉(兵70期)

砲術長  佐藤 秀一中尉(兵72期)

機関長  徳沢菊一郎大尉(機48期)

機関長付 穂坂 英久大尉(機52期)

回天搭乗員は

川久保輝夫中尉(兵72期、鹿児島県)

原  敦郎少尉(兵科三期予備士官、早稲田大学、長崎県)
村松  実上等兵曹(水雷科、静岡県)

佐藤 勝美一等兵曹(同、  福島県)

の四人であった。

第六艦隊から金剛隊各艦は攻撃時期を二十年一月十一日の「月出時以後黎明まで」とし、発進距離は「目標地点の二十浬以内、極力近接」するよう命令されていた。攻撃の期日は途中で一日延期され、十二日となった。

ホーランジャ港はニューギニアの北岸中央辺りのフンボルト湾にあり、南緯二度三一分、東経一四〇度四一分。東京、ウルシー環礁の大体真南に当たる。同島屈指の良港であって、昭和十七年四月以後日本軍が統治し、飛行場などを建設していた。

この地を連合軍が昭和十九年四月に占領すると、総司令官ダグラス・マッカーサー大将は豪州のブリスベーンから司令部を此処に移し、比島に上陸してマニラに戻るまで彼の本拠にした。したがって陸海空の根拠地施設は十分に強化され、これらは戦争終結まで米国陸海軍の補給、中継基地として活動を続けていた。

一月八日の陸軍機の飛行偵察により「大中型輸送船四十隻が港内、十隻が港口に碇泊中。大型の軍艦は在港していない」と報告があり、第六艦隊司令部はこれを伊四七潜に通報した。

伊四七着は攻撃前日の十一日〇〇〇〇ホーランジャの五十浬圏に着いた。雨期に入っているため近海は墨を塗ったように暗かった。夜闇のなかを厳戒裡に水上航走で接近、ときどきスコールが来ると、レーダーで不意を打たれないよう、怪しい方向に逆探知機を指向して慎重を期した。

一〇三〇潜望鏡観測によりソエアジャ岬、通称金剛岬またはホーランジャ岬の北八度、十五浬で艦位を確認したのち、北方へ避退した。哨戒艦艇数隻を認めたので港内の偵察は行わなかった。

日没後一時間経ってから距岸三十浬に浮上、北に向け航走、急いで充電と最後の発進準備を行った。途中で入港する病院船に行き合って一時潜航回避、二三三〇より発進点に向けて南下、進入を開始した。

一月十二日〇一〇〇、三号艇、四号艇搭乗の村松、佐藤両兵曹は七生報国の白鉢巻に防暑服の軽装で、出発命令を復唱して甲板上から乗艇し、伊四七潜は潜航進出に移った。

〇二三〇交通筒がある一号艇、二号艇の川久保中尉、原中尉が乗艇した。

 

以下、艦長が戦後発表した戦記によれば、〇三〇〇予定の発進地点のホーランジャ岬の北四浬に到着、〇三四五針路を定めて各艇縦舵機を発動、深度計を整合、〇四一五陸標によって正確に発進点についたことを確かめた。〇四一五 一号艇発進、続いて三号艇、四号艇、二号艇の順に各艇〇四三〇までに何の故障もなく順調に発進していった。聴音によって順調な航走を確認したので、伊四七潜は急速浮上して機関を発動、速力をぐんぐん上げて発進点を離れた。艦長は前日朝の状況から推察しても港外五十浬付近までは哨戒艦艇が出ていると想像して、警戒は特に厳重にした。

薄いミストがかかっていて視界が十分でなかったが、〇五一一薄明るくなりかけたホーランジャの方向にかかった灰色の靄を破るように、大きな赤橙色の閃光が認められた、と記述してある。

 ところが第六艦隊の金剛隊戦闘詳報では、回天の発進時刻は艦長戦記よりも一時間あまり早い「〇三一六から〇三二六の間」となっている。艦長自身の内地帰着時の報告であるから、これが事実であろう。艦長戦記による発進時刻〇四一五は、菊水隊のときの戦記と全く同じであるが、交通筒を通って乗艇して以後、発進までの艇内待機時間が一時間四十五分にもなる。予定どおりの作業進行にしては異常に長すぎる。

また、水上避退中、前回菊水隊のときと同様に「フンボルト湾に一大火焔が昇騰するのを、回天の命中を予想した時刻に視認した」とある。その時刻は艦長戦記では〇五一一と、これまた菊水隊の〇五〇七に酷似しているが、戦闘詳報ではこれは〇四五五になっている。

発進地点については、戦闘詳報には記載がなく、艦長戦記は金剛岬の北四浬としている。一方では同艦の航海長が寄稿した戦友会誌および著書には肝心な発進地点の記事がない。しかし、それらの航跡図には概略ではあろうが、記入された距離の尺度によれば、何と発進地点北十八浬である。これならば話の辻褄が合うので、真実に近いと考えられる。

艦長戦記の発進時刻、地点とも、戦闘詳報と大きく食い違うのは菊水隊のときと同じ筆法ではあるが、ともに警戒艦艇がいる敵の重要根拠地の目の前の「湾口四浬で急速浮上、高速水上航走」は、潜水艦乗りとして到底出来る筈がない。いかにも勇敢、豪胆なように聞こえるが、信じがたい話である。

 第六艦隊の回天作戦担当参謀であった鳥巣建之助氏は著書に、〇二三〇艦長は艦内から乗艇する川久保中尉、原中尉を発令所に呼び「無事目的地に着いた。海上は静かで、まさに天佑ともいえる。本艦は〇三〇〇発進地点着の予定。発進点は金剛岬の北四カイリ半。発進時刻一号艇〇四一五、以後三号、四号、二号の順に五分間隔、発進後の各艇は、金剛岬の正横までは、針路一八〇度、速力十二ノットとし、岬をまわりこんだ後は、各搭乗員の所信によって行動するが、先発艇はなるべく奥の目標を選定し、突入時機がほぼ同一となるようにせよ」と、実に事細かく指示した状況が述べられている。菊水隊のときと同様に、ここでも「突入時刻を一斉化すること」に異常にこだわって、その点ばかり殊更に強調している。過度に形式主義的であるが、菊水隊、金剛隊とも、各潜水艦の各艇の一斉突入は、ほかに問題がなければまことに結構であろう。しかし雲量、波浪、雨、霧など、気象、視界の条件は、その時と場所によって同じとは限らない。同時攻撃よりも顧慮すべきもっと大事なことがあるではないか。

 金剛岬の北方十八浬から〇三一六発進した艇が水中進出速力十二ノットで連続航走すれば、岬の正横に到着するのは一時間半後の〇四四六になる計算である。その手前で浮上し、水上航走で岬を観測して位置を確認、通過したのち、右に変針して港内をめざし進入してゆく。変針点から港内までは少なくとも二浬の距離があるから、浮上観測して港内進入路を決め、潜航と浮上で航走する順当な所要時時間は約三十分と見込まれる。戦闘詳報記載の火焔を望見した時刻は〇四五五となっているが、距離十八浬が正確であれば、敵艦突入は早くても〇五二〇を過ぎる筈である。

当日の日出時刻は〇五三七であり、変針点に着く〇四四六頃は日出の約五十分も前である。月出は〇三三〇であり、月齢二七・〇の月が、その頃は高度が低く、周囲は未だ暗い。それに加えて視界が、艦長記事のように良くなかったことは問題である。

従って、伊四七潜側にしても、また、回天が発進する〇三一六頃は全くの闇夜であって、しかも視界が悪いのであるから、潜望鏡で観測しても距岸十八浬からでは、艦位は前後左右、かなりの誤差があった可能性が高い。

 米国陸軍の輸送船「ボンタス・H・ロス」号は一月一日、ホーランジャに入港し、次の行動指令を待って、港口管制所から一三四度一・九浬の地点に投錨中であった。この位置はフンボルト湾内であるが、ホーランジャ港の東南の沖合になる。

米軍が大戦中期に二、七五一隻もの大量建造をした戦時標準船リバティ型の中でも就航したばかりの新造船であった。総トン数七、二四七噸。貨物積載量は容積で九、一四〇トン。性能向上型の次期戦標船ビクトリー型もまた五三四隻も建造された。

 そのボンタス号の戦時日誌ほかによれば、日出前の日本時間〇五一五、同船の三番船倉左舷の水線下十三フィートの船腹に突如、魚雷が命中した。しかし直径九インチの凹みができただけで、魚雷は海面上を滑って離れ、同船の側面を回って船首の前方右舷寄りに九十米離れてから大爆発した。爆発は激しかったが、堅牢に出来ている船首の方向であったため、船体の損傷は軽微であった。同船は港長へ信号して報告、錨地を移動して海軍の調査官の検査を受けた。

爆発の数秒後、金剛岬の方角で大爆発が起こったのを、同船の一等航海士と事務長が目撃した。別の資料では、同船の付近で計三回の爆発が起こったと記述するものがある。

 この爆発時刻について、日本側の資料は第六艦隊戦闘詳報の〇四五五と潜水艦長戦記の〇五一一、それと艦長の記事にいつも合わせてある航海長の「五時すぎ」だけである。当のボンタス号が報告した〇五一五に、これら艦長戦記などは一見、近い。だが疑問がある。

発進後、回天作戦担当参謀の戦記では「艦は全速力で、航路を海岸沿いの東北東にして、発進点から遠ざかった」とある。また航海長は「針路を北東にとり、速力第三戦速二十ノットでひた走りに走った」と記述し、付図には進路を東北東で記入してある。

しかし、伊四七潜が岬から十八浬北の地点で回天を〇三一六発進させて、東北東へ二十ノットで退避すれば、爆発の閃光を見たという〇四五五までに水上を三十三浬も航走する。金剛岬からの距離は四十四浬前後にもなる筈である。即ち八十一キロであり、東京から直線距離で熱海近くまでに当たる。この遠距離で、しかも視界が悪いのに菊水隊のときと同じような海面爆発の「閃光」が、本当に見えたのであろうか。

それに加えて、戦闘詳報の〇四五五は、伊四七潜が閃光を望見したという正しい時刻の筈であるが、ボンタス号側の日誌記載の時刻〇五一五とは二十分の差があって、符合しない。

 ボンタス・ロス号に命中した回天は如何なる状況であったか。船腹に残った僅か径九インチの凹損は、重量八・三トンの回天が、炸薬を充填した硬い先鋭頭部で、輸送船の薄い横腹に全速三十ノットで激突したにしては余りにも軽微である。また、回天の最後の突撃であれば当然、安全装置を解除しているので、命中と同時に爆発し、轟沈させた筈である。

恐らくは、この回天が日出前の、視界不良のなかを水中進出速力十二ノットで潜航、南下していたところ、たまたま沖合に停泊していた船舶に、予期しない時期に衝突したのではないかと想像される。搭乗員は多分、顔の前にある特眼鏡で負傷しながらも、急いで安全装置のハンドルを十回廻して解除し、右手を伸ばして電気信管のスイッチを押したであろうが、そのとき既に艇が離れ、強大な爆発力も相手船に大きな損害を与えるに至らなかったものと推察されるのである。

他の爆発については、資料が今なお見当たらず、状況が分からない。

 熱帯のこの岬周辺は裾野のように珊瑚礁が取り巻いていて、発進地点の誤差、視界不良などから陸岸に接近すると、座礁する危険が大きい。若しも、回天が珊瑚礁に座礁した場合は身動きがとれない。尾端にある防潜網対策の保護金具が却って障害になって、金具が屈曲すればプロペラも廻らなくなる。たとえ回天に、プロペラを逆回転させる機構があったとしても、珊瑚礁からの脱出はまず不可能である。その場合、兵器秘匿のためには、無念ながら自爆するしか途がないであろう。

伊四七潜が閃光を、本当に望見したとしても、ボンタス・ロス号至近での爆発であったか、或いは岬周辺での爆発か、いずれにしても同艦からの観測については判断ができない。

川久保輝夫中尉(没後少佐)の回天がどれであったか、遺憾ながら確かめる手段は勿論ない。

伊四七潜は二月一日呉に帰着。金剛隊作戦研究会が二月七日、第六艦隊司令部で開催された。伊四七潜の戦果について第六艦隊の金剛隊戦闘詳報は「視界不良のため、命中状況の視認はそれ以上出来なかったが、〇五〇八敵がフンボルト基地電波で潜水艦警報「S」を連送するのを受信した等」に鑑み「全基攻撃成功、八日の飛行偵察に依り在泊を確認せる輸送艦五十隻中、大型四隻を轟沈せるものと認む」と戦果を発表した。

 回天の訓練基地、第一特別基地隊大津島分遣隊の指揮官板倉光馬少佐の戦後の著書によれば「搭乗員にとっては近距離発進が得策」と同少佐は判断しておられた模様である。敵艦命中に全精力を集中するため、途中の精神的、肉体的の疲労を極力軽減する見地から、菊水隊作戦を実施する潜水艦は、出来るだけ泊地に近づいて回天を発進し、その後は深々度に潜入して避退することを期待された。

「ところが、司令部に於ける作戦会議のときの説明では、戦果の確認を考慮し、(湾口手前十二浬に)発進点が選ばれたということである。すでに決定したことであり、(故仁科関夫少佐が)搭乗員として注文をつけるわけにはゆかなかった」と記述されている。

板倉少佐の期待は「近距離発進、潜航避退」であったが、潜水艦の位置が正確であって、且つ視界の明るさがあれば、理想的であろう。

菊水隊の場合、発進後の回天はどのような状況であったか、実際は殆ど知ることが出来なかったのに、第六艦隊司令部は考え得る最大限の戦果を謳って上層部に報告し、自分までそれを信じ込んでしまったのか、戦術的な検討、反省がなかった。

せめて戦闘詳報の内容程度でも搭乗員たちに知らせて検討させれば、戦果に根拠がないことが即座に判明し、根本的要素である発進地点と発進時刻について改善を提言したであろう。次の金剛隊でも第六艦隊は全く同じ攻撃方法を踏襲した。同じ方法では同じ失敗になる。

 上記のとおり金剛隊の伊四七潜は変針予定地点の金剛岬から十八浬北へ離れた場所から回天を発進させたと見られるが、視界が不良であったならば、艦長が御自分の戦記に記載されたとおりに、湾口手前四浬などの、港内が見えるほどの地点にまで進入して回天を発進させるべきである。そうすれば、成功の公算は遥かに大きかったであろう。「目のある魚雷・回天」には、条件として目が見える明るさが必要なのである。

言うまでもなく潜水艦が安全に帰還し、回天作戦を操り返し実施することが全体の成果拡大に繋がるので、そのときの環境が許すのであれば、搭乗員の疲労というマイナスはあっても、十八浬発進でも結構と考える。しかしながら、潜水艦自身の安全だけを考えて、回天が戦果を挙げられないような発進方法をとれば、国家、民族を破滅から救おうとする大作戦の目的が果たせない。搭乗員の生命は虚しく消えるのである。

「回天特別攻撃隊」は搭載潜水艦と回天とで構成し、隊名を命名される。回天搭乗員は艦長の命令によって還ることのない発進をする。潜水艦は回天を貨物として「積載」したのではなく、自艦の武器として「搭載」したのである。一体になっての特攻作戦なのであるから、その全員の責務として戦果を挙げることを最優先すべきではあるまいか。