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パインなにわ会によせて

上野 三郎 

 三月四日にパインなにわ会開催の通知を受け、早速に出席の返事をした。

 振り返えると私は大阪から二年前に鎌倉に引っ越したが、この地区ではあまりクラスの人との連がりが無く、心もとなく思って居たが、大谷君のすすめで出席することとした。

 ネービー時代には一度も横須賀を訪れたことが無く全く縁の無い軍港であったが、パインの名前だけはよく耳にしていたので、関東の旧友に出会う楽しみに加えて、未知の地を

一度は訪れたいと思って出席したのが、最初であった。

 『小松』は流石に伝統ある有名な料亭だけあって、大きな木造二階建ての建物が昔のままの姿を残して居り、玄関をあがって一階の広い洋風の応接間には旧海軍時代の記念品が大事に陳列され、その歴史が今も『小松』の中に生き続けて居るように感じた。

又挨拶にでられた山本直枝さんは小柄であるが品がよく和服のよく似合う女将さんで九十歳に近いとはとても思えぬ若さで、伝統と格式を守り続けて来られた様がうかがわれた。

 『小松』でのパインなにわ会は昔を思い起こすには又とない、いい出合と思った。それから数えて今回が三度日の出席となる。

  当日の四月十日は生憎の雨模様だったが、かえって沿線の桜が鮮やかで横須賀への車中の春を満喫した。
 
会は定刻一六〇〇に始まり、先ず幹事の左近允君より次の様な挨拶があった。

(1) 今回(第九回)の出席者は二十二名で最初に出席と返事した人全員の也出席で(何人か欠けるのが普通であるが)喜ばしいことである。

(2) 年初にスミソニアン博物館の別館を訪問した時に撮った晴嵐(伊四〇〇潜水艦搭載機)の修復作業の様子の説明

―戦後五十年以上を過ぎた今でも当時の飛行機を修復展示

する努力が続けられている事に、アメリカの余裕と歴史を大事にする態度には感心。

(3) 昨年に続いて出席の応蘭芳さんの紹介。

 引き続き山田良彦君より連絡事項、

藏元君の乾杯の音頭にて『打ち方始め』となった。

 瞬時の内に宴は盛り上がり、五十年前の青年士官の集団と変わり、想い出話しに花が咲くと共に、寄る年波を反映してか随所で健康談議が交わされていた。宴半ばにて相沢君の

年期の入った声が披露され、達人の域に達した、座の盛り上げ上手には一同感心した。

名残り尽きぬ宴であったが、大広間にて『小松』の山本様、特別参加の応蘭芳さんを囲んでの記念撮影を終わり、来年の再会を期して散会した。

 尚その時応さんより印象として、『会の始まった最初の頃は、多少堅苦しさが漂っていたが、そのうちに昔の逞しい海軍士官の集団と変化し、いい寡囲気の会合を楽しまして頂

いた。』と更に、ドクター、ウォルター、ボルフの言を引用して、『皆様も歳をとったと思っていても、人生の区分の中では中の後期の年代です、常に刺激を求め、好奇心を持って生活するなれば、老の後期である百二十歳迄生き続けられる事を念頭に置き暮らして下さい。』と締め括ったが、あらゆる事に挑戦している彼女らしいと思った。

帰宅して、テレビをつけると、丁度司馬遼太郎の『街道をゆくー三浦半島』が、はじまつていた。その中で海軍の事にふれ、陸軍は精神訓話が多く、それに比し、海軍は『海軍士官はスマートであれ』と教えた。スマートであれ、と言う事は軍人でなくても人生のありかたの総てをカバーしている。又戦後のある時(昭和四十六年)、三笠の士官室で何人かの旧海軍士官との集いを持った、自分の生涯の中でこの様な品のいい集まりの中に身を置いたのは初めてで、又再びはないたろうと幾度もおもった。と極めて好意的な海軍に対する感想が述べられていた。

 今日一日を振り返ると、旧海軍の歴史が生き続けている『小松』で旧友と懐古の情にひたり、家に帰っては司馬遠大郎の『街道をゆく』に刺激され、極めて有意義であった。

 そして海軍に身をおいた一人として、あらゆる事にスマートで、品性のよさを保つよう心掛け、いい伝統を大事にせねばと思い直した。

 参加者23名  氏名 掲載略