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関西なにわ会京都集会報告記

桂  理平

平成七年六月、石井前幹事から後任幹事を頼まれたときには、大阪から離れた宇治市に住む私としては充分に任務を果たせないことを怖れて固く辞退した。然し「一度は是非やれ」との強談判にやむなく引き受けた次第で、改めて諸兄の協力とご支援をお願いします。

 今後、会合は十一月と六月頃に開催したいと思っているが、関西だけでなく都合のつく旧友には出来るだけ参加をして頂きたい。お互い七十歳を越える歳になった今日、気楽にお会いして語り合いたいものです。

さて今回は去る十一月二十二日(水)に京都の東山界隈の紅葉を愛でながら散策した後、ホテル、サンフラワ京都で総会及び懇親会を行ったのでその内容を報告します。

日頃より運動不足を感じている私はホテルで食事と雑談だけで終わるのは不充分と考え、付近の史跡と紅葉の観光を加えて軽く散歩することにした。

一、集合時間 場所及び順路

1、一四〇〇、「哲学の小道」の起点になっている銀閣寺門前町に架かっている銀閣寺橋のほとりに集合

2、順  路  哲学の道→法然院→真如堂→会津藩士の墓地→金成光明寺(黒谷)→ホテル(終点)

二、散歩参加者 16名  氏名掲載略

三、散歩行事の雑感

京都の紅葉の美しさには定評があり、その最たる時期は例年十一月二十日前後である。その頃は人出も最高になるので、行動に支障がないようにと京都在住の小西、山本とともに予め沿道やホテルの下見をしておいた。

 幸い当日は快晴に恵まれたが、これもクラス諸兄の日頃の行いがよいからであろう。また京都の歴史に明るい山本がガイドを担当し、事前に巡回予定の寺院のガイドマップを作成して配り、なお且つ道中では丁寧に説明をしてくれたので、参加者一同の興味も一段と深まった様子である。

哲学の小道は桜の葉の紅葉が主力であった。ただ人通りが多すぎて期待外れである。

更に進んで横道に入って法然院に向かう。正面の茅葺きの山門や周囲の鬱蒼たる老松、杉木立ちの重厚さ、そして白砂、苔、池等を配した庭園の風情は一挙に数百年のタイムトンネルを潜った感じで、暫し脚の留まる思いであった。この辺の地名を「鹿ケ谷(ししが

たに)」と呼ぶ。奢る平家を追討しょぅと僧俊寛等が謀議したと平家物語に出ているが、今もその名が残っている。その後、俊寛は謀が漏れて悲惨な生涯を送ったのは有名な事ですね。

西に歩いて白河通りを横切り、少し坂を上って真如堂に着く。境内は紅葉した楓の木が多く手を挙げるとその枝に届くので身近に感じる。人出も多く皆さんが錦秋の秋を楽しんでおり、我々もまた満喫する。

続く小径を歩くと会津藩士を葬る墓地がある。会津藩は幕府より京都守護を命ぜられ

「蛤御門の変」には勝ったが、「鳥羽伏見の戦い」では敗れて多くの戦死者を出し、此処に埋葬されたのである。苔むした墓石群を眺めると、そぞろ哀愁の気を催す。戦いに破れた身分は私達も同様なのだと思うからだろうか。

更に道を辿れば堂々たる伽藍の黒谷さん(金成光明寺)に着く。山門、鐘楼、本堂、阿弥陀堂などが揃っている。幕末には会津藩が本陣を置き、京都市中の治安の維持に当たつた処である。有名な新選組も配下だったので、多分此処に出入りした筈である。

平安の昔、法然上人が廷歴寺で修行を終えて京都に下山し、此の地に留まり布教を始めたと伝えられている名刹である。また源平合戦の勇士熊谷次郎直実が平敦盛を討って世の無常を感じ、出家したのも此の寺に於いてである。現在「鎧掛けの松」と呼ぶ樹齢数百年

とも思える素晴らしい枝振りの巨木が境内に根を張っていた。

余談だが渡辺 望の伯父さんで終戦直後に大臣や衆議院議員として活躍された水谷長三郎氏のお墓が此処にあり、お参りすることができたのは望外の喜びであった。

四 ホテルへの直行者

  石井  晃、大村 哲哉、富尾 治郎、桂夫人

  塩見 頴一、同夫人   計6

五、総会及び懇親会    計二十二名

一七〇〇から二〇〇〇までホテル、サンフラワ」京都の四階「寿の問」で行った。中国料理風の椅子式テーブル三阜に着席し、和洋折衷料理を楽しんだ。

 大阪市内の会合が続いていたので、今回は変化を求めて京都で開き、「紅葉狩」と洒落こんだ処、珍しい出席者もあって人数も多く、幹事としては誠に有難い。「やあやあ」との略式の挨拶で昔を思い出し、皆さんリラックスのご様子。誰からか「腹が空いた」との発

言があり端なくも散歩の効果は確認できた。

 幹事の挨拶の後、すぐに食事を始め、暫くの問は四方山話となる。引き続き、「我々は江田島卒業後、各人いろいろの分野に別れて戦ったが、自分の周辺のことしか判っていない。今夜はお互いの戦争体験を語ろうではないか」との提案があった。

 まず飛行機関係では河野から大山の話が面白いと紹介したので、口の重い大山が漸く話し始めた。「本土防衛の夜間戦闘機「月光」で戦い、夜のB-29の遊撃戦で戦果を挙げて帰ってきた。」と淡々と語ったが、当時無敵のB公をやっつけた話しは嬉しかった。まさに殊勲甲というべきだが何もなかったらしい。

 潜水艦関係では渡辺が潜水学校で普通科と高等科の教程を一緒にして受けたので学校生活が長くなり、実施部隊に出るのが遅れたと残念がった。

 また小西の「伊三十三潜水艦」の遭難と脱出談には全員粛として話しに聞き入った。実に大変な経験をしたものである。

 水上艦艇では上野(兵)が話しをした。「鬼怒」「天城」「葛城」と乗り組んだが、実戦には恵まれなくて残念に思っている。

 さて我々は現在の問題として「健康」は大きな関心事である。現在闘病中の山本の話を聞いてみよう。まず日頃、健康の都合でクラス会に欠席のお詫びをした後、「七年前、血液検診で自覚症状のない儘(がん)の疑いを宣告され、精密検査の結果、胆嚢結石、大腸ポリープを発見。直ちに両方とも切除手術をしたが、二年余りで肝臓に転移しました。肝臓手術は治癒率は高くないが手術を決心。実施。その後二回開腹手術を重ねたが現在はこの様に元気です。(がん)は[早期発見]と[検査、手術に耐える体力]さえあれば何等怖くはないと信じています。参考までお話します。」

 彼は(がん)と闘い大いに頑張っている。医者からはっきり告知されれば誰でも動揺する。然し敢然として、前向きに決心して実行するのが大切な事であろう。もっと聞きたい人は直接連絡すれば経験を話してくれると思う。

 後は酒も廻って、「わいわい」「がやがや」の雑談になったが本当に楽しい一時だった。瞬く間に時間も経過し、姫路など遠方に帰る人もあったので、二〇〇〇には名残を惜しみながら散会した。

 徒歩十分のところに紅葉の名所として名高い「永観堂」が二二〇〇までライトアップしているので見物しては如何かと推奨する。後日見物した人からよかったとの感想を頂いた。