TOPへ  56目次

二、大和の特攻作戦に従事して

宮本 鷹雄

(一)出撃時の心境

米軍の沖縄進攻作戦は熾烈を極めた。沖縄防禦の陸海軍部隊は勿論、民間の人々も各自の職場や住居が戦場であり日を追うにつれて一つ一つの戦斗が肉弾相摶つ特攻作戦である。これは昭和二十年四月初めの沖縄戦の様相であった。

戦艦大和を旗艦とする部隊に沖縄水上特攻作戦(菊水作戦)が下令されたのはこの時である。当時私は第二艦隊司令長官伊藤整一中将の幕僚として旗艦大和に乗艦、内海西部にて訓練に励んでいたが、「ああ、これで死に場所が出来た」「本土決戦には或は間にあうまいが、あとはよろしく頼みます」とキチンと腹がきまった。それもその筈「沖縄までの片途燃料を積んで出撃、沖縄に突入して、むらがる敵艦艇を蹴散らし、あとは海岸に乗上げて浮砲台となれ」という命令だった。

あとから考へると無茶苦茶な命令だといえるが、その時受けた身としては、すうとした、今迄戦況不利な状態において来る日も来る日も内海西部で訓練に訓練にと、ウッ積した空気に包まれていたのが、この命令で暗雲がいっぺんに吹飛んだような晴ればれした気持になった。

ここで出陣の模様を書くことにしよう。具体的な時間等は違うかも知れないが、大和の艦橋から展望した特攻部隊の模様を記し、併せて私の当時の心境を述べたいと思う。

大和を旗艦とする特攻艦隊は昭和二十年四月六日一六〇〇三田尻沖を出撃した。七万五千トンともいう巨艦大和を中央にして軽巡一、駆逐艦八隻が前後左右に警戒している。その様は親鳥が雛を見守りながら針路速力の変換の度毎に離れんとする雛をかかえるように、いだくように、ついては離れ、離れてはつき因縁の深い血族一統が遠い旅路をしているかのように思われた。

艦の数こそ少いが五千数百人の水上特攻の戦士、親もあり子もある。まだ結ばれない恋人に対する慕情もつきないものがあったことだろう。しかし、一旦決意して故国を後にした時、果たして如何なる感慨にあったことか。

出撃後各艦の状況はまるで申合せたかの如く艦橋の側壁附近に菊水の紋所を白く浮き彫りにし、また、墨痕鮮やかに記された破邪顕正の白い長旗をなびかせて進む様はその昔大楠公の湊川出陣にも似て身の引しまる思いがした。

眼鏡を以て各艦乗員の動作を見ると三、三、伍、伍、思い思いに打ち興じ、肩を叩きながら談笑しておる様は帰らざる出陣の勇士かと疑われるばかりであった。ああこれこそ我海軍の先輩が遺された伝統がしからしめたのかと且つは驚き且つは喜びただ頭の下る思いがした。

大和艦隊が別府湾にさしかかったのは午後七時近く黄昏時であった。海軍と別府は縁の深いところであった。海の男、艦隊勤務の吾々には温泉の街別府は特に懐かしい所だった。視界もあまりよくなく時あたかも桜花爛漫の候、桜の花か湯のけむりか、はるか湾内に白い群を望むのみ、ああ、これで故国へのお別れかと我が水上特攻部隊の重大任務を自覚した。

 

(二) 大和沈没時の状況

二時間有半、延べ一〇〇〇機の雷爆撃は不沈といわれる大和もどうすることも出来ない。いわんや哨戒機〇機の航空戦においておやである。勿論大和の対空砲火も各護衛艦の対空射撃も一寸の休むひまなく奮斗したが巨象の蟻の大群に襲われるに似て次第に浸水傾斜の止むなきに至った。退艦直前、末次水雷参謀と小沢通信参謀が艦橋の張出しから私の居た防空指揮所を仰ぎ見ながら「砲術参謀退艦するぞ」と声をかけて呉れた。後でわかったことだがこの時伊藤司令長官から総員退去の命があり、長官は艦橋の長官室に入られてロックされ、大和艦長有賀大佐は戦斗艦橋のコンパスに航海長と共にガッチリと体を固縛されて艦と運命を共にされたのであった。

私は防空指揮所に居たのだが、雷爆撃回避はベテランの森下参謀長、有賀艦長がおられるし、対空砲火は砲術長が「砲撃始め」を一度下令するとあとは各射撃指揮官が独断で射撃するのでこれにも加勢出来ない。戦斗見物のようなものだったが、急降下爆撃と銃撃には折々首を縮め、また雷撃の命中爆発に対して同じ艦にばかり命中しなければいいがなあと考へていた。ただ、艦の次第次第に傷つき傾き速力が減って行くことは心細い限りだった。然し大和の機銃は黙々と火を吹いている。これでも俺も鉄砲屋だ鉄砲が打てる間は引きさがる訳にはいかぬ。これが我が海軍の伝統ではある、俺も先輩が敷いて呉れたレールを走るのだと思っていたのだろう。しかし、何時の間にか艦の傾斜は大きくなり、独りで立つことも出来ず次第に海面が足下に上って来るのがわかった。

 

(三) マックアーサー司令部でのやりとり

「戦艦大和は我が機動部隊によって撃沈したのであるがその状況を説明せよ」マックアーサーが東京にやって来てからは私は終戦処理の外、前後約二ヵ月位あの司令部に呼び出された。右の質問もマックアーサー指揮下の極東爆撃隊司令部の参謀長格の奴さんのものである。

ええ、俺がそんなこと知るもんかといいたいところ。ご承知の通り小生外人が大の嫌い、持に英米人が殊更に嫌いだからどうしようもない。遠洋航海中寄港地でアットホームの招待客の案内をせずにロッカールームで酒を飲み山岸、古賀繁敏兄等と木阪指導官附に何回となく御注意をいただいた組である。だが、好きも嫌いもない生き残り司令部職員は森下参謀長( 高血圧のため出頭出来ない)と、石田副官(主計少佐)。廻って来るところは私より外にはいないのだから仕方がなかった。前の質問に対してもいやいやながら何日間か呼び出され漸く戦闘編も大詰めに来たと思われた日のことである。

爆撃隊司令部の参謀長じきじきに「大和攻撃時の米機動部隊の術力を当時の日本海軍の夫と比べて貴官はどう思うか」とやって来た。

この質問の来ることを待つこと久し、何時の日にか、鬱憤を晴らしてやろうと考えていたし、その答案も前々からチャンと暗記して準備していたのである。

「一機の護衛機もない大和艦隊を、潜水艦をもって出撃時の四月六日から触接させ、追躡させ、更に四月七日の黎明時からは大型機による哨戒触接を欲しいままにし、然も天候は航空攻撃にお誂えむきの雷雲多く、スコールを伴う、これで延べ一〇〇〇機を以って雷爆撃し二時間有半の長時間を要したことは、マアマア米軍も飛行機が多かったからよかったようなもの、その術力は日本海軍航空隊の諸戦の術力に及ばざること遙かに遠し。もし日本海軍航空隊の術力を以って攻撃したとすれば、三十分を出でずして全艦隊を撃沈したであろう」とやった。

通訳の中尉殿は難しい顔をして、次々と通訳していたが、小生が言った通りかどうかは知る由もない。然し参謀長は大げさなヂェスチャーを交へながら「オヽ テリブル テリブル」を連発していた。

その日の接待はいつもとちがって紅茶と菓子にウイスキーまで出してもてなして呉れたが、とてもそのグラスを取る気にはなれなかった。それっきり沖縄作戦での呼出しはなかった。

TOPへ  56目次