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三、宇垣長官の最後

野村了介

(一)長官の心境

宇垣中将は連合艦隊司令部でもこわい人で通っていたらしい。私もはじめて宇垣さんのお宅へお迎えに上ったときから、私の書く命令の案文を真っ赤になるくらい直された頃まではこわかった。しかし塵室(?)の基地で、夕方になると、長官室から「作戦、上って来い」という電話がかかってくるようになった頃から、こんないいオヤジはないと思うようになった。

その日の重要電報綴りを届けに行く私を酒の相手にして夕食を採られるのが、長官の日課になっていたのだ。しかし仕事の上では手きびしく叱られのが常で、これは私に対してだけではかった。それが或る日から突然、全然叱られなくなってしまった。第二回目の米機動部隊の来襲した頃だったが、今でもその時の宇垣さんのお考えはよく判らない。しかし、麦の穂や千万人の槍先かなという句を示して居られた。当時の日本の全航空兵力を指揮して敵機動部隊の撃滅の重責を担いながら、それを果し得なかったことを千万人の国民に詫びておられたのだと思う。

一月頃から敵機の本土空襲が激しくなって来たので、防空を専門とする部隊を作る必要が出て来た。本土の中国地方から九州にかけての防空を担当するのが七二航戦だったが、私がその先任参謀に転出することになった、戦闘機乗りとして本望というべきである。司令官は山本親雄少将で、司令部は第五航空艦隊司令部の隣に作られた。

(二)長官機特攻に出撃

終戦の詔勅を大分基地の地下作戦室で聞いて、私は咄嗟にはどうしていいか判らなかった。急に防空関係情報の量が激減し、私が作戦室に顔を出している必要もなくなったので、壕の外へ出てぼんやり飛行場の方を見ていた。その時第五航空艦隊の司令部の入口に幕僚達が並んで、長官が何処かへ出て行かれるような気配がしていた。私は長官が終戦の連絡ため東京へ行かれるものと独り合点をしていた。しばらくすると、飛行場から九九艦爆二機が東の方へ離陸して飛んで行くのが見えた。九九艦爆で東京までとすると、長官はお疲れになるだろう、などと考えながら小山の上から司令部宿舎へ帰った。山本司令官も丁度第五航空艦隊の司令部から帰って来られたばかりで、「長官は特攻に行かれたよ」とポツリと云われた。私は息をのむ思いで、やっぱり、と思った。宇垣長官はかねがね「私は部下全員に特攻を命じた。だから最後に特攻するのは私自身だ」と云って居られた。出発の間際、第五航空艦隊の参謀達がお伴を願い出たが「お前達は未だ若いのだ、祖国の再建に尽せ」といって、中将の襟章を外し、従容として飛行機の座席につかれたという。

私自身はとてもそれを傍受する勇気がなかったが、電信員の話によると、長官機からは「トラ、トラ、トラ」(我れ 奇襲に成功す)の電報が入り、引続いて長符「ツー」が発信されたという。長符が消えたのは一九三〇だった。

終戦の年の暮、私は米軍の爆撃調査団のムーア海軍中佐の質問に答えていた。

質問が終ってからムーア中佐は、非常によく協力してくれたから、三つだけ君の質問に答えようと云ってくれた。

私の三つ目の質問「終戦の日に宇垣中将が特攻されたが、その戦果が判っていたら知りたい」というのに対し、彼は目の色を変えて出て行ったが、十五分位して息をはずませながら帰って来て、「水上機母艦に命中して大損害を与えた。だが残念ながら(I am sorry)沈まなかった」と。自国の水上機母艦がやられたのだ。

I am sorry なんていったら同僚から袋だたきに合うだろう。然し思わずそれを云ってしまったムーア中佐に、私は中世の騎士道を感じていた。

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