TOPへ  56目次

四、『天佑を確信し全軍突撃せよ』

三上 作夫

()  私の立場

 捷一 号作戦発動の約半月前に私は連合艦隊の作戦参謀に就任した。軍司令部作戦課では約ニケ年半南西方面(比島、インドネシヤ、馬来、仏印、印度方面)の作戦を担当していた。この正面はいわば防勢正面で、作戦的には守勢に立ち、持久態勢をとられていた。すなわち継戦能力を持続する機略物資の補給源を確保すると共に海空陸の作戦基盤を造成して、萬一に備えることに重点を置かれた。然るに攻勢正面たる太平洋地域では、戦運我に利あらずして、緒戦において獲得した戦略要点や南洋方面の堅塁は逐次蚕食され、我方は莫大な戦力の消耗と戦略要点の喪失を重ね、十九年の半ば頃には戦線が遂に我が防勢正面たる南西方面に移動したのである。この正面の戦局誠に重大な秋、若輩で実戦経験に乏しい私が、連合艦隊作戦参謀を命ぜられようとは夢にも思っていなかったし、私自身当惑したのである。

() 捷号作戦とは

 北海道から本州、四国、九州南西諸島、台湾、比島を結ぶ戦略要線の何れかに敵が来攻した場合、我国は南西方面からの作戦持久に欠くべからざる物資の補給路を遮断せられ、遂には継戦能力を葬失し、物量と精強な軍事力を誇る連合軍には到底抗し得べくもない。従ってこれ等要域の何れに敵が来攻する場合も、我海軍の全力を投入して、最後の決戦を挑み、敵の企図を挫折させ、又は其の進攻速度を停滞させるねらいを以て計画された作戦計画が捷号作戦計画である。この計画は四つに分れていて、捷一号作戦は比島方面、捷二号作戦は九州南部南西諸島及び台湾方面、捷三号作戦は本州・四国・九州方面情況に依り小笠原諸島方面、捷四号作戦は北海道方面に、何れも敵が来攻した場合に発動される作戦計画であった。大本営海軍部の作戦は、軍令部作戦課が担当していたが、級友山口中佐は海陸軍協同作戦担当者として、捷号作戦計画を立案した立役者である。

私は南西方面作戦の担当者として捷一号、捷二号正面の作戦を研究し、一応の私案を持っていた。その作戦構想が参考にされたことは勿論である。それには彼我の戦略要点、敵作戦線の予想、敵進攻予想時機、我が対応策等の骨子が盛ってあった。

() 捷一号作戦発動前の状況

 米海軍の慣用戦法として、上陸作戦実施直前その上陸点背後に通ずる我が後方連絡線の遮断竝に海空基地の徹底的壊滅を企図して、機動部隊を以って猛攻を加えるのが常である。レイテ上陸作戦の際は、上陸予定日の約一週間前、即ち十月十二日から十五日迄台湾方面に対し敵機動部隊は型通りに来襲した。我方は「あ号作戦(マリアナ上陸時の我航空機動反撃作戦)以来約三ヶ月半、大作戦を実施することなく、ひたすら航空戦力の恢復を急いだ甲斐あって、第一、第二航空艦隊の実力は可成向上していた。

 敵の台湾方面来襲は、彼方の予期したところでもあり、敵来襲第一日の我が戦果報告カが、我方に有利な航空作戦の状況を如実に示すが如き、嚇々るものであったので、連合艦隊司令部は、将に乗ずべき戦機と判断したのである。翌日連合艦隊司令長官は「基地航空部隊捷一、ニ号作戦発動」を下令し、更に戦果をより拡充するため、小沢機動艦隊の虎の子たる母艦航空部隊の大部を基地航空部隊に投入し、一挙に敵機動部隊の覆滅を計った。果たせるかな、連日輝かしい戦果が報告せられ、その累計は敵の空母戦艦巡洋艦の撃沈十二隻、大破炎上二十三隻にも達した。連合艦隊司令長官は早速「基地航空部隊は連日力戦敢闘嚇々たる戦果を挙げ我が突撃路を啓開せり」と祝電を発した。戦果報告と敵の実被害には、かりに差はあるにせよ必ずや戦場に、敵の敗残艦があるに相違あるまいと判断した連合艦隊司令部は、志摩艦隊に、戦場掃蕩の任務を与え、奄美大島

より、台湾沖に出撃を下令した。戦場に到達した同艦隊は、威風堂々たる敵艦隊を偵知し、倉皇として退却した。戦後明かになったところによると、敵は、僅かに巡洋艦二隻に損傷を蒙っただけで、逆に我方は一七四機の航空機を優秀なる搭乗員と共に失ったのである。戦果を確認する余裕を持たなかった我としては、戦果誤報も已むを得なかったかも知れないが、爾後の作戦指導を困難にしたことは事実である。敵は突如として十月十七日レイテ湾口に在るスルアン島に上陸を開始した。敵機動部隊に大打撃を与えたと判断していた我方としては、その上陸時機は予期以上に早く、敵の時期上陸地点をミンダナオ島方面と予想して我に対し、全く不意を衝いたのである。大本営の捷一号作戦決意をうけて、連合艦隊司令長官は、直ちに捷一号作戦を発動した。

() 捷一号作戦の骨子

1.第一遊撃部隊(栗田中尉指揮、戦艦七、重巡十一、軽巡ニ、駆逐艦十九、(この内戦艦ニ、重巡一、駆逐艦四は西村中将指揮し別動)は、レイテ湾に突入、敵攻略部隊撃滅

2.基地航空部隊(第一航空艦隊大西中将指揮、第二航空部隊福留中将指揮)は、比島に集結し、敵機動部隊を制圧して、第一遊撃部隊の進出を掩護すると共に、レイテ湾の敵攻略部隊攻撃

3. 機動部隊(小沢中将指揮、空母四、戦艦改装空母ニ、軽巡三、駆逐艦八)は、敵機動部隊を比島北東方面に誘致牽制し、第一遊撃部隊の進出掩護

4.先遣部隊(三輪中将指揮、捷一号作戦参加潜水艦十一)は、敵後方補給、増援路の遮断

5.南西方面部隊(三川中将指揮、第二遊撃部隊臨時に南西方面部隊に編入)第二遊撃部隊(志摩中将指揮、重巡二、軽巡一、馳逐艦四)は逆上陸作戦実施

右の諸部隊は当時動員可能の限度であって文字通り決戦態勢である。その特徴を捉えてみると、第一遊撃部隊の巡洋艦以上は、待望の電探を装備し、而も自力にて対空防禦を行うことを目途として、機銃を戦艦約一五〇門、巡洋艦約一〇〇門程度まで装備し、全艦針鼠の様相を呈していた。同隊は、約三ケ月間、シンガポール沖のリンガ泊地に在って、燃料を存分に使いながら、夜戦と敵上陸泊地に突入訓練を積み重ね、心技共に高調であった。然るに基地航空部隊は、台湾沖に於て基地航空部隊捷一・二号作戦に従事し、決戦的航空戦を敢行した結果、その損害も甚しく、有能なパイロットの大半を喪失した為、兵力の再整頓を必要とし、捷一号作戦に即応し得る状態ではなかった。従って、捷一号作戦に於ては、海上作戦の主兵ともいうべき航空部隊の活躍は期待すべくもなかった。劣弱なる航空部隊は、窮余の一策として、航空機の敵艦に対する体当り戦法を採るの外索なしとする空気が基地航空部隊の下から盛り上り、大西中将も遂にこれを容れたので、ここに神風特攻隊が生れたのである。小沢中将の指揮する機動部隊は、基地航空部隊捷一・二号作戦に、有能な母艦搭乗員の大部を投入し、これを喪失したので、洋上における発着艦可能の搭乗員は数える程しかなかった。従って機動部隊の飛行機は、母艦から発艦し敵に攻撃を加えた後、比島の航空基地に帰投する戦法を採るのが、残された唯一の方策であった。先遣部隊、亦、累次の潜水艦作戦で、多数の潜水艦を喪失し、新造艦の乗員は練度低く、加えても電探装備もなく、米海軍の対潜攻撃部隊の前には、手も足も出ないという状況であった。本作戦発動直前に、南西方面部隊に編入された第二遊撃部隊は、独力を以て戦艦を含む敵水上部隊に堂々と対抗し得る部隊では勿論なかった。海上部隊の主兵たる航空部隊が無力化した状態に於ても、尚此の時機に決戦を挑まねばならなかった根本的理由は、捷号作戦の項に延べた通りであって、もしも此の機を逸したならば、南方からの重油の補給は全く絶え、今後海軍部隊の組識的抗戦は期待すべくもなく、連合艦隊は坐して敗滅を待つのみである。進んで戦えば奇蹟的にか、天佑に依ってか、または敵の錯誤に依って勝機を掴み得ないとも限らない。此の境地に立って、可動全力を結集して、捷一号作戦は断行されたのである。捷一号作戦発動に伴う各部隊の行動を律する連合艦隊電令作を起案した私は、流石に不安と焦燥の念を禁ず

ることが出来なかった。果せるかな、部隊行動の速度においても、各部隊間の協同連繋においても、所要の情報通信の錯誤においてもはたまた各部将の独断専行においても、幾多の混迷を重ねつつ作戦は進行した。

() 二十四日栗田艦隊反転迄の全般作戦の慨況

 栗田艦隊は、十八日午前正午リンガ泊地発、二十日正午ブルネー湾着、最後の燃料捕給と作戦打合せを行い、二十二日午前八時ブルネー湾を出撃した。この時西村支隊を分離別動させ、スルー海を東進し、スリガオ海峡を経てレイテ湾に突入する如く行動させた。栗田主隊は、パラワン島西方を北上して、シブヤン海に入り、サンベルナルディノ海峡を経て、サマール島東方を南下する、一浬に及ぶ犬迂回路をとってレイテ湾に突入する如く、行動を予定した。小沢艦隊は、二十日一七三豊後水道を出撃、二十四日ルソン島の北東海面に到達する如く行動した。志摩艦隊は、二十一日一六〇〇馬公を出撃、行動中にレイテ突入作戦に加入し栗田、西村両部隊より作戦要領の通報を得て、スリガオ海峡からレイテ湾突入を企図し、二十四日夜、ミンダナオ海に進入、西村部隊より一時間遅れてレイ

テ湾に突入する如く行動した。

 基地航空部隊は、索敵能力不備のため、敵空母群の位置も鞫曹゚ず、況んや、艦隊上空に掩護戦斗機を出す余裕はなかった。已むを得ず、神風特攻隊を編成し、二十一日以

来二乃至三機を以て、散発的にレイテ及びタクロバン方面の敵機動部隊を索めて攻撃を実施したが、殆んど効果はなかった。翻って敵は、我が諸部隊の行動を事前忙偵知し、弱小部隊には目もくれず、主攻撃を我が栗田部隊に集中して来た。二十三日黎明時パラワン島西方に於て、栗田中将の直率する第四戦隊(重巡四隻)は、敵潜水艦の攻撃を受け、長官旗艦愛宕、摩耶沈没、高雄大破の大被害を蒙った。このため栗田長官は、旗艦を大和に移し、高雄には駆逐艦二隻を派遣して曳航させた。将に大被害である。ブルネー湾出撃時、艦載水上偵察機三十二機を陸上基地に移したが、もし艦隊砲戦直前までこれを保有活用したならば、かかる被害を未然に防げたのではあるまいか。艦隊は前進を続け、シブヤン海に進入した。

 明くれば二十四日一〇四〇、敵機動部隊よりの第一波二十五機が来襲し、妙高落伍、武蔵主砲方位盤旋回不能の被害を受けた。一二〇〇第二波二十四機、一三二五第三波二十九機が来襲し、武蔵に攻撃を集中して来た。艦首に命中した魚雷三本のため、武蔵は二十二節に減速せざるを得なかった。栗田長官は、来襲間隔を逐次つめる敵機に依る被害累増を苦慮し、連合艦隊及び基地航空部隊に対し、「第一遊撃部隊はシブヤン海に於て苦戦中。敵の空襲は更に激化を予想さる。基地航空部隊及び機動部隊は、現在ラモン湾方面にあるものと推定される敵空母艦隊に対し、速かに積極的攻撃を加えられたし」の緊急信を発信した。友軍からは何等の敵情通報にも接せず、基地航空部隊からは、直衛機派出は勿論、敵機動部隊に対する挺身攻撃も実施されていないと判断した栗田長官が、友軍に奮起を促した電文と思われる。一四三〇第四波五〇機の大部が、落伍した武蔵に攻撃を集中したため、武蔵は多数の魚雷攻撃を受け、速力十二節に落ちた。栗田長官は駆逐艦二隻を随伴させて、武蔵を列外に出した。一五一〇、第五波一〇〇機の戦爆雷の大編隊来襲、武蔵は十数発の魚雷と爆弾により六節に減速、多量の浸水と注水により艦首より刻々沈み、一八五〇機械停止、一九三五横転と何時に爆発を起し、一大火柱を挙げて沈没した。この間魚雷により長門は速力二十二節、矢矧も二十二節に減じ、その他各艦に被害があって、艦隊速力は十八節に減速された。栗田長官は敵空襲が更に時隔をつめながら、激化されるものと判断し、我被害が加速度的に累加されることを憂え、一五五五反転を下命し、その理由を連合艦隊長官に打電した。即ち「六三〇より一五三〇迄の間、五回に亘る艦上機の攻撃を受け、被害少なからず。敵は頻度及び機数を漸増しあり。このまま強行進撃すれば、被害計り難く、目的地突入の成算期し難し。依って一時敵の空襲圏外に避退し、基地航空部隊及び機動部隊の攻撃成果に策応して再挙するを可と認めたり。」

() 突撃命令起案の心境

 栗田艦隊反転の理由を付した長文の緊急信を受けた連合艦隊司令部内は、流石に寂として声なく、長官以下今後の作戦指導について苦悩の色がありありと伺われた。私は二十三日の第四戦隊大被害以来、作戦経過に異常な関心を払い、敵情報告の早期入手と機動部隊の敵機動部隊誘致の初期段階の手段として、無線電波の発信が如何に行われるかに注意を集中していた。二十四日に至るも敵情は入らず、我が機動部隊の動静も不明である。私は未明より、司令部の庭を歩きながら、今後の作戦経過を予想し、色々と対策を練っていた。栗田艦隊に対する敵機来襲の報が伝わり始め、武蔵の落伍の報に接すると、次で栗田長官から反転理由の長電が届いたのである。これを精読し、執慮した上、「天佑を確信し全軍究撃せよ」の緊急電を起案した。上司のサインを求めたところ、何れも即座に同意され、何等の説明も求められなかったので、直ちに発信した。

 この時の心境は

1. 栗田長官の電文中「友軍の攻撃成果に策応して再挙する」とあるが、基地航空部隊及び母艦航空部隊兵力が殆んど無力化されている状況に於ては、我よりする航空突撃の成果を期待することは出来ない。従ってこの観点からすれば作戦再挙の機は鞫曹゚ないであろう。

2.機動部隊及び西村・志摩両部隊は、既に敵との交戦距離に近接するか、又は完全にその距離以内に在って、敵との離脱は容易では、あるまい。而もこれ等の部隊は、敵の攻撃力を分散吸引することにより出来得る限り栗田艦隊に対する敵機来襲を緩和しその進撃を容易ならしめる如く、挺身進撃中である。全軍協同の中心たる栗田艦隊今後の行動が未定な場合、これに策応する部隊はその去就に迷わざるを得ない。

3.逆に小沢艦隊、西村支隊、志摩艦隊の行動に対する敵の企図は末だ明でないが、敵の出方によっては、思わざる戦況が現出するかも知れない。特に小沢艦隊の牽制陽動作戦は、開戦後今日迄に採用した最初の大企模な試みであって、敵がこれに如何に対処するかは、捷一号作戦における最大の関心事である。但し仮に敵が此の策に引掛ったとしても、一度交戦すれば、直ちにその正体を見破られることは必定なので、小沢艦隊としても長く敵を吸引することは不可能である。従って栗田部隊としては、その転瞬の間を利用する態勢数になくてはならない。友隊攻撃の成果を見届けて再挙するような時間的余裕はないのである。

 この見地から栗田艦隊がもし「一時西方に欺瞞行動を行い機を見て反転進撃せんとす」と意思表示を明確にしたならば、連合艦隊長官としては、何も発言する要はなく、この意味での栗田艦隊の戦術的行動はむしろ望むところである。

4.突撃命令の冒頭に「天佑を確信し」を付け加えた理由は次の通りである。

 栗田長官の進言は度々もっともであって、兵理の常道からすれば、航空部隊の支援下に水上部隊が進撃するのが常識的であるが、現下の我兵力内容からして、斯る常道を踏み得ない絶対絶命の状態に追い込まれているのである。このため兵の奇道的用法として、小沢艦隊の牽制陽動作戦、旧式戦艦部隊たる西村支隊の臨時投入、更に計画外の志摩艦隊の投入等採り得る総ての手段を尽して、海正面からする敵上陸の第一波を攻撃 破砕する最後の手段に出ているのである。これとても天佑なくしては成功の算はあるまい。苦しい時の神だのみといわれるが、今や全くそれだけである。此の気持を全軍に示す為であった。これは命令の形式としては型破りである。

5. 「全軍突撃せよ」を下令した理由は、栗田長官より一時避退の進言があったが、各部隊の態勢は、今からが勝負どころであり、全軍心を合せて突撃することにより、戦機啓開の算なしとしないという、連合艦隊司令長官不動の決意を示し、各部隊の力戦奮闘を期待したのである。而も−刻も猶予を許さない戦況であったので、簡結にして出来るだけ多くを含み全部隊全員に、迅速に、最高指揮官の意図を、周知徹底させる目的を以て、「天佑を確信し全軍突撃せよ」の電令を起案したのである。

() 天佑は起らなかったか

 流石に戦は水物である。絶対優勢の米海軍も、数々の錯誤を起した。

 その第一は、ハルゼー艦隊主力の機動部隊全力が、完全に小沢艦隊に誘致せられ、シブヤン海には一艦一機も残さず引揚げてしまい、難関サンベルナルディノ海峡を栗田艦隊をして、無碍に通過させてしまった。

 その第二は、スプラーグ少将の率いる護送空母群がハルゼー機動部隊よりの掩護を過信し、無警戒裡にレイテに航進中我が栗田艦隊に寄襲され、周章狼狽したことである。 その第三は、キンケード第七艦隊が、レイテ上陸作戦で三日間の陸上砲撃と、西村支隊との砲雷戦で、戦艦の残弾零、巡洋艦・駆逐艦の残存魚雷ニ十七本という、全く膚にあわを生ぜしむるが如き状態であったことである。加うるに、マッカーサー司令官は尚艦上に在り、船団は今尚揚陸中であり、海岸の揚陸物資は山積していた。斯る揚陸作戦の段階では、ハルゼー艦隊は、揚陸地点を直接支援し得る地点に位置し、日本軍をその場で遊撃する態勢に在るべきではなかったか。ハルゼーは、将に、栗田艦隊に絶好の好餌を提供していたのである。栗田艦隊が、スプラーグ護送空母群を殲滅し得る態勢を整えた途端に、レイテ突入を理由に、早々に引揚げ、またレイテ湾を指呼の内に望みながら、所在を確認していない敵機動部隊捕捉撃滅を理由に、北に針路を変更し、至上命令たるレイテ突入を放棄したのは、純戦理上からは、何れも理解に苦しむところである。

「断じて行えば鬼神も之を避く」という古語は、充分に味うべき言だと思う。捷一号作戦は作戦海面東西六浬、南北ニ浬の広人な海面で戦われ、戦斗時間は、実戦時間三昼夜半に及ぶ、共に世界記録であり、我が海軍が真に全力を挙げて戦った事実上の最終戦であったので、その全貌を明かにし、戦訓を求めることは、容易な業ではなく、首題の範囲をも逸脱するので、これにて筆をおく。

TOPへ  56目次