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十、海軍兵学校針尾分校について

高 岡 健 吉

昭和二十年四月 五番目の海軍兵学校が誕生した。その名を海軍兵学校針尾分校と呼んだ。

大原や岩国のように生徒数の急増に伴って、学校を増設したのではなく、全然性質の違う教育をした兵学校であった。級名は七十八期であり、最後の級、最も若い級、即ち海軍兵学校のアンカーともいうべき級である。

教育期間僅か五ヶ月足らずであったが特異な存在と思われるのでここに紹介する。

(一)海軍予科生徒

昭和二十年二月中旬、海軍兵学校針尾分校教官兼監事という内命を受けた。その内容いかんと問うたところ、中学三年を修業した十五、六才の少年を集め、四年、五年の教程を一年で修了させ、且つ本校生徒となる予備訓練をやる学校だという。

即ち当時は勤労動員で中学三年の半ばから授業を中断し軍需工場へ召集された。勉強は殆んど不可能。併し本校生徒の教程内容を低下させるわけにいかない。その対策として中学三年修了生徒から約四二〇〇名を選抜し、海軍生徒として採用し、予科教育をやろうというわけである。

名称、待遇、服装等総て本校生徒と同じ、即ち正式名称は海軍生徒であり、資格は上曹の上、短剣もついている。当時の中学三年生に短剣がいかに魅力的であったか想像に難くあるまい。

(二)針尾時代

佐世保に近い針尾島にあった針尾海兵団を一部改造し、海軍兵学校針尾分校が開設された。

昭和二十年四月三日約四〇〇〇名の少年達(敢えて少年という)が第一種軍装に短剣を吊った雄姿で入校式に整列した。

「海軍生徒を命ず」と任命され、嬉しさと、誇らしさに満ち溢れた、紅顔可憐な少年達の顔はいまだに眼の底に残っている。

教頭林彙邇少将、生徒隊監事長屋茂大佐(現参議院議員)、部監事はメナド落下傘部隊長堀内大佐を筆頭に佐官級が七名。分隊監事は元気一杯な若い大尉が各部に一名づつ配置された。全生徒を七ヶ部に、一ヶ部約六〇〇名を十二ヶ分隊に編成された。計八十四ヶ分隊だ。各分隊に分隊付教官と称して、予備学生出身の中、少尉がつけられた。いわば分隊監事兼文官教官というわけだ。その他部付教官して三、四名の教授級が配された。と部付教官中異色な人を一名披露しておく。

東本願寺法嗣、大谷光紹氏。

さて海軍生徒を命ぜられた彼等予科生徒達の教育方針いかん。申すまでもなく教育綱領あり、校長、教頭としての御方針の枠内ではあるが、直接生徒に接する生徒隊監事と部監事の間に次のような意見が統一された。

「出来るだけ腹一杯喰わそう。そして青年らしい体力づくりに全力をあげよう。そうすれば頭のよい、吸収力極めて旺盛な彼等のことだ、勉学の方は心配なし」と。

中学四年、五年の教程を一年でこなすこと位左程困難ではあるまいと判定されたが事実四ヶ月で概ね四年生の教程が終り、教科書が間にあわず、教官達を慌てさせた一幕もあった。

他の兵学校と大きな違いの一つは上級生がいないことだ。従っておどおどした点がなく、のびのびとした生活環境は彼等に好影響を与えた。

先任部監事鬚の堀内さんが愛情と厳しさとユーモアを交えた見事な体操指導は素晴らしい効果を発揮した。成長盛りの若者に充分な食事と適度な運動をやらせたんだから当然な結果ではあるが、一ヶ月位で見違える位血色がよくなり、少年らしい桜色の頬になった。

平均体重は鰻昇り。二ヶ月後には一、五〇〇名位の生徒が空中転回が出来るようになり、見事な集団体操を見せてくれた。

いささか頭をいためたのは鉄槌(カナヅチ)組が意外に多いことだった。海軍将校の卵として絶対欠くべからざることなので重点訓練の一つとされた。満水の洗面器に顔をひたすことから始め、風呂場での基礎訓練をやった。指導するはオリンピックの水泳選手鶴田、遊佐両君を筆頭に有名選手がこれに当ってくれた。生徒達は「あっ鶴田だ」とか、「遊佐も教官か」とかいいながら嬉しそうにジャブジャブやっておった。

靴下や下着の洗濯も出来るようになった。なかに無精なやつもおったことは本校生徒と同じだ。戦局の苛烈さをさけて順調に教育が続けられた。

(三)防府移転

悲惨極まりない沖繩の玉砕が伝えられてから間もなく、防府移転の命令が下された。次の戦場は九州と判断、下関海峡の閉鎖により九州の孤立が予想された処置であった。四、○〇〇余名の生徒と教官及びその家族並に下士官兵、総勢四、五〇〇余名という大部隊の引っ越した。しかも連日の爆撃で燃えさかる北九州の戦火の中を縫って強行された。

七月上旬毎夜特別仕立の一列車に一ヶ隊単位で各部監事指揮の下に七日間続けられた。幸に大した事故もなく総員無事防府到着。炎天下のもとで授業再開にこぎつけた。

併し比較的恵まれた条件の下に過した針尾に比し、ここ防府はひどかった。先ず第一に、生鮮食糧の調達が極めて困難になった。もともと生鮮食糧の少ない山口県のことだから一層みじめだった。

毎日トラック一台で野越え山越えジャガイモや野菜の買出しに出かける姿は、これでも海軍兵学校かと情なくなった。

第二にノベツマクナシの空襲警報だ。北九州や徳山、下松、広島等へ爆撃に来る編隊は総て豊後水道を北上し、概ね防府沖上空で左又は右旋回する。連日二回乃至三回四、〇〇〇名の生徒が防空壕へ往復したのでは授業どころではない。あげくのはて、とうとう数十発の焼夷弾で生徒館の大部を焼かれてしまった。大急ぎで教室を生徒館に代用して一息つくまもなく、これでもかと襲ってきたのが伝染病だった。しかもシガ菌という支那産の猛烈な赤痢で死亡率五〇%といわれる代物だ。あっという間に一日五〇名、六〇名と新患者が出る。生徒のみならず兵員、教官、軍医官までやられた。教頭木村昌福少将も例外ではなかった。

比較的元気だった小生は防疫班長を命ぜられ日夜その対策に奔走し、頭をなやませた。多数の犠牲者が出ると覚悟した。教室の半分を病室に転用、屋外に急造した二百名分の露天便所(溝を堀っただけ)。病室へ帰る元気がなく。それに倒れこんでいる青ざめた生徒達。

目もあてられない悲惨さだ。猛烈な下痢、そして脱水症状、薬もない。折角血色もよくなり、体重もふえ、少年らしい朗らかさと溌刺さに溢れてきたのもつかのま、あまりにもひどい変りようだった。

そして遂に八月十五日が来た。

罹病者約一、五〇〇名。犠牲者十二名を数えた。やはり抵抗力の最も少ない、若い生徒だけだった。あたら春秋に富んだ少年達が八月十五日を目前にして昇天した。

終戦の詔勅を拝聴したとたん気のゆるみか小生も遂に血便が出た。八月二十三日敗戦日本の縮図のように閉校の日がきた。郷里に帰る生徒達を茫然と見送った。隔離室の窓から。

(四)七十八期会

彼等はこんなことを訴えながら、期会をつくりあげた。きっと堅実に大きくなるだろう。期待して止まない。

『桜の針尾に相集い、炎天の防府で別れて早や二十三年、おたがい十五、六才の少年だった俺達も、すでに三十代末に近く、今や人生の後半に臨まんとしている。万感胸に秘めて全国に散った同期生四、〇〇〇名、その後さまざまな道を歩んできたものの、折りにふれ想い起こしたのは、あの清浄な青春の別天地針尾島、そしてそこに展開された純粋な少年達の充実した生活ではなかったか。

勿論もはや「帝国海軍」なく.海軍兵学校また過去の存在になった。世の変遷、歴史の流れと共に、総ての価値観は大きく変動した。

併し日本海軍の文字どおりアンカーとして、兵学校生活を体験し海軍の良さ……なによりも「予科生徒」のユニークな素晴しさを各自の心に片隅に共有している。

当時の体験は俺達にとって、あるいは秘められた誇りとして、あるいは幼なかりし日の夢物語として、時には心の支えとなり、励ましとなり、時には懐かしいほのかな想い出となって心のどこかで生き続け俺達の現在に有形無形に作用してきた。

そんな絆が最近クラス会結成の機運を高めてきた。四、〇〇〇名のクラス名簿を作ることがまず先決と一年有半、血のにじむ努力の結果大半の消息を確認し、昭和四十三年五月二十六日結成総会を開催した。来賓をふくめ八○○名余りが北から南から集った。二十三年前「恙なき航海を祈り」つつ別れた友が再会し、今夜の安全な航海を祈りあった。そして活躍と発展を誓った。


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