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三、重巡愛宕の最後

岩部 六郎

昭和十九年八月下旬、わたしは戦運が不利になって行く情勢の中で、マニラから北ボルネオのブルネーに碇泊していた軍艦愛宕の内務長に転勤した。愛宕には二艦隊の司令部があり、わたしが着任した頃麾下各艦の艦長達が替りあって来艦して作戦の打合せがなされていた。

司令部にはクラスの大谷、宮本両参謀がいて作戦計画を立てており、士官室にはクラスの横田中佐がいて航海長をしていた。そしてここから始められる作戦は比島に上陸を開始した敵軍を撃滅しようとする日本海軍の総力を結集してなされる最後の最も大事な作戦であった。出撃前の各艦はここを最後の基地として乗員の名簿と共に不要なものは全部揚陸を完了していた。わたしもマレー沖海戦からミドウェイ海戦に参加した経験を持っていたが、この時程緊張した事はなかった。血書して愛宕神社にささげた詩が思い出されてくる。

敵の大群比島に上陸を開始す。遊撃部隊は敢然殲滅に向はんとす。この一戦皇国の興廃決するところ勇躍生死を超越して任務を全うせん。そして自分の名前と、一、二の部下の名前を併記した。その一人に草野嘉太郎と云う温厚で実に落着いた少佐があった。神への誓を書き終った出撃の前日午後八時頃、わたしは長官公室の従兵から呼ばれて公室に栗田長官をたずね、お別れの挨拶を申上げた。いつもながら温容あふるる中に微笑を浮べられた長官は、出撃の準備は全部出来たかと尋ねられ、別れの盃を下された。捷号作戦を前に控えられた長官の心中は恰も鏡の如く澄み切っているような気がした。

既にモロタイ方面からくる敵機の偵察圏内にあった泊地の上空には時おり敵機の姿が雲間に見え陰れしていたので、友軍の全貌も察知されていた事である。暫時にしておいとましたが、この作戦が成功せん事を重ねて祈願する外なかった。翌十月二十二日午前八時艦隊はレイテ湾をめざしてブルネーを出撃した。その陣容は旗艦を愛宕とする四戦隊、高雄、摩耶、鳥海、一戦隊、大和、武蔵、長門その他数十隻、決戦必勝を誓った艦隊の出動、海面には出撃と同時に十数隻の敵潜が配備されている状況がわかった。艦隊は強速力、之字運動を続けながらこれを回避し北上した。二十三日起床と同時に総員配置に着けのラッパが艦内に響き渡る。駈足で艦橋に昇り戦斗部署についた。長官をはじめ司令部要員並に艦長以下戦斗配置について間もなく右舷から敵潜の雷撃をドシンドシンと続けて受けた。艦足は直におち、同時に艦は右に傾きはじめた。副長は弾火薬庫注水を命ぜられた。わたしは左舷の機械室、缶室の非常注水を命じた。艦長は、艦は動けなくなるなと云われたが、長官は所信通りやれと云われた。その頃下方から舞い上って来た黒煙が艦橋の左から舞い込んできた。艦橋と運転指揮室間に設けられた直通電話で堂免大佐から左舷後機に注水開始したとの報告があった。艦橋の傾斜計の針は二十四度を指していたが、その時一時止ったような気がした。

堂免大佐の沈着な姿が二十余年後の今日尚はっきりと浮んでくる。しかし傾斜はまた増しはじめる。このころ村井、細島の両少尉に、御神影を他艦に移乗せよと令せられる艦長の声が聞えた。長官及び幕僚達も次々と飛込んで駆逐艦に乗り移られたのだろう。傾斜は更に続いて行く。この中にあって艦長は総員上にあがれ、軍艦旗落ろせと令せられた。その声が実に沈であった。前方を見ると砲塔は海水につかろうとしていた。艦橋にはもう誰もいない。後方で「内務長これが最後の別れです」と云う水雷長の声が聞えた。わたしは傾いてゆく艦腹の上を這い上って行った。乗員は沈んで行く艦の巨体の周囲に黒く泳いでいる。わたしは思わず沈んで行く巨体の渦の中に吸い込まれてしまった。水を飲みながら苦しくてたまらない。両手を上にあげ、ばたばたともがきながら吸い込まれて行く。段々疲れとあせりが増してくる。その瞬間黒い閃が目をかすめて行った。

そしてこれでいよいよ死んで行くのだと思った。しかしまた次の瞬間、わたしは左手に軍艦のどこか一部を握っている気がした。その時これをしっかり握っていたら艦と一緒に海の底まで沈んで行くのだ、落着いて死んで行こう。もう何も苦しむ必要もない。後は陛下万歳だと云う気にになった。そして思い切って海水をがぶがぶと飲んだ。そうすると今までの苦しみがいつの間にか消えてしまった。

そして大きい水の渦がぐるぐると輪をまいているのが見え出した。そしてその渦が次第に小さくなり次第に泡吹になって行くのが見えた。その内に水中が段々と明るくなり艦窓でもあるのかと思っていると、いつの間にか海面へ浮び上った。運よく目の前に大きな道板が浮いていたが、それへ泳ぎつこうとする迄に後からら誰かにしがみつかれ、また水中にはいって海水を飲んだ。既に数人のものが道板にたどり着いていたが、これが神の恵みの道板あったに違いないと思った。その後、駆逐艦の内火艇に拾上げられ駆逐艦に乗り移った。広い海面には既に味方の艦影も見えなかった。数百の戦友と御艦を飲み込んだ魔の海には真黒い重油のかたまりと大小の浮遊物が散らばっていた。その後、わたしは特設空母隼鷹に便乗し、内地に帰ることになったが、乗艦中第五艦隊の司令部員に発令されたので、生存した部下を飛行機格納庫に集め別れの挨拶をした。その時の心境を今も時々思い出す。

比島の戦線は錯綜し日米決戦は日に苛烈なり我四たび大命を奉じて一線に向はんとす諸子におくるはなむけの言葉

七たび生れて強敵を殲滅せよ

そして内地に帰ると呉鎮守府から人事局に電話し、折返し飛行機にて第五艦隊の碇泊していたシンガポール海域に飛んで行った。長官はレイテ湾に突入された志摩中将であった。

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