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夜の生徒館

躾教育覚書に次の定めがある。

「巡検後総員起床迄 便所二赴ク以外 寝台ヲ離ルべカラズ 談話スルコトヲ得ズ」
「巡検後便所ニ赴ク際ハ草履ヲ用ヒ 静粛ヲ旨トシ 附近分隊二迷惑ヲ及ボサザル如ク注意スベシ」
「巡検後 便所使用ノ際ハ 四個ノ内一個点灯使用スべシ
「総員起床前ハ生徒相互ノ敬礼ハ行ハズ」

巡検後、便所へ赴く時は白衣の寝衣に軍帽着用、草履をはく。
たとえ古鷹おろしの寒風肌さす深夜なりとも、あるいは膀胱満タン、尿意急を要する時と錐も、将校生徒たる者、整々粛々と便所へ赴かねばならない。武将への道もまたつらい哉、寒そうな恰好は勿論ご法度ながら、テメエの膀胱とその蛇口をなだめながら悠々と歩くのは熟練を要する。急ぎ歩きすると草履の音も高くなる。踵から床につける。防音的強歩をする。用を済ませてセイセイした一号に捕まって、「待テ!貴様ノ歩キ方ハ何タルザマカ〃‥」と含み声でお達示をやられた時は、寒さは寒し、小便出たしで何ともいえぬ焦躁感がある。ただし、明日への戦力、他分隊員の安眠を考慮してか、一号自身も寒いのか、極めて簡単、鉄拳も少なかったようだ。

総員起し前は敬礼省略だから上級生にあってもシラン顔、一号からジロッとやられて、うっかり敬礼すると「敬礼不要、ネボケルデナイ」と叱られる。寝衣にはネームプレートがついていないから、何学年か不明な筈だが.そこは年功序列、大体一号から四号まで、歩き方や白い寝衣の古さ加減で一目瞭然。腕組みして歩くのは一号の特権スタイルである。
明治以来の赤煉瓦の生徒館にはいろいろと怪談がしみついている。怪談の由来は巡検後一号が「只今ヨリ寝言ヲ云ウ」と称して毎年最下級生に申し送りに伝える。誰もいない時の暗夜の八方園下の便所はうす気味悪いもの。

昼間の打てば響く若人の熱気は何処へやら、生徒館は静まりかえっている。スモッグ皆無の江田島の冬の夜空は澄み渡り、月光、星のまたたき冷たく冴えわたった廊下を草履の音のみ静寂を破る。
浮世をはなれ、悠久変らざる月や星を眺める時、人間いささかロマンチックになるは心の常、入校したこの四号にとっては、そぞろ故郷が偲ばれるひとときである。

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